常識に対する態度・ふたつめ

 常識を背景にした意見を、みんなが言っているから、という理由で『良い』と判断することも、みんなが言っているから、という理由で『悪い』と判断することも、結局変わんねえな、と思うようになっていたのだった。つまり、どうして俺は『みんなが言っているかどうか』ということをこんなに重要視してんだろ、という疑問を覚えるようになってしまったのである。みんなが言っていることをそんなに気にしてしまうのなら、従うにせよ抗うにせよ、みんなが言っていることの支配下にある、という事実は変わんねえだろ、と思うようになってしまったのである。同時に、反常識を称賛しているうちに、反常識的意見もすでにかなり語り尽くされていて、反常識も『常識』と変わらないんだな、なんて感じるようになってしまったせいもあったのだろう、と思っている。みんなが言っているから、という理由が気に喰わなくて『常識』から去ってみたら、すでに『反常識』だってみんなに言われてしまっているじゃないか、ということに気づいてしまったわけだ。で、向かうところをなくしてしまった。結果として、もう『みんなが言っている』ということをいちいち気にしてもしょうがないのかもしれない、なんていう境地に辿り着いてしまったのだった。良いかどうか自分で決めるしかないんだな、と思うようになったのである。変な枷から逃れることができて、意見をかなり自由にすることができた、とは思う。第三段階は、自分が『良いと感じる』ものを『良いと判断する』段階だった、とも言える。最近は、自分が何を感じているかなんて重要なんだろうか、と考えることもあったりする。たぶんこれが突き詰められたときに第四段階に達するのではないか、と考えている。