世界は称賛に値する

日記を書きます

認識している事実を捨ててでも大切だと叫びたくなる気持ち

 好きだという気持ちを、私は結局のところ、誰もが持つ単なる人間の性質だ、と捉えている。単純なる事実として捉えてしまっている。だけどいつかそれを、不遜な考えだ、とか、不当な考えだ、とか感じてしまうような恋心を覚えることもあるのだろうか、なんてぼんやり考えていた。無論、誰もが持つ人間の性質である、を、だからたいしたものではないのだ、なんてところに直結させたりはしていない。誰もが持つ性質であっても素晴らしいものは当然あり、むしろこれがそうだ、と考えているからだ。でも、大切にしている猫に対して、単なる猫だ、と言われると、ちょっとした不快や違和を感じるように、大切にしている恋に対して、単なる恋だ、と言われると、やはりちょっとした違和や不快を覚えてしまうように思う。だから、もしかすると、それがとても激しい恋であるならば、単なる恋だ、という言葉に対して、物凄く過剰に反応してしまって、不快や違和を感じるどころか、そんなわけねえだろ、なんて思わず口にしたくなってしまうことだってあるのかもしれないな、と思ったのだった。誰もが持つ性質である、ということを視界の外に放り投げたくなるほど、激しく揺さぶられる恋だってあるのだろう、と思ったのである。認識している事実をいったん脇に置いて信念を語ることはあっても、認識している事実を投げ捨ててまで心の底から叫びたくなるようなことは、今の私には、おそらくない。