なぜ頑張れを否定してしまうのか

 たぶん、期待しすぎなんだろうな、と思った。頑張れ、というような言葉を批難してしまうことがあるのは、頑張れを初めとする応援系の発言に対して、少しばかり期待をかけすぎてしまっていたからなのではないか、と考えてみたのである。期待を裏切られるという状態は、立派に『憎しみ』を誕生させる土壌になりうる、と思うからだ。素晴らしい優しさ、だとか、死ぬほどの思いやり、だとかが、この『頑張れ』という言葉によって自分に与えられるのだ、なんて風に、頑張れという言葉に対して無謀な夢を見すぎていたのではないか、と考えてみたわけだ。けれど無論、そんなに物凄い『頑張れ』がそう簡単に手に入るわけもない。だから、落胆し、失望し、否定派にまわってしまったのかもしれないな、と考えてみたわけである。というかそもそもそういう人たちは、人の優しさ、というものに期待をかけすぎていたんじゃないかなあ、とも思う。頑張れという言葉なんかにはたいした『優しさ』が籠められていない、なんて思ってしまえるのは、そもそも人間が持つ『優しさ』に対する見積もりが誤っていたからなのではないか、とも思えるからだ。