頑張れは批難に値するのか

 頑張れ、という言葉を否定的に捉えてしまいがちなのは、言葉の表面しか見ていないからなのではないかな、とふと思う。頑張れという言葉は、安易で、安直で、短絡的な、つまりは『手抜きな応援』だと思える、から、そんな『手抜きな応援』で済ませてしまうような精神が気に喰わないのだ、というような論理を語る言葉を、時おり見かけるように思う。けれど、真剣に、真摯に、自分に何が言えるかということについて泣きたくなるほど考え抜いて生み出された、必死で懸命な『頑張れ』だってあるだろう、と思うのだ。実際に、こんなに大切に思っていても――こんなに『自分に何ができるのか』を考え抜いたとしても、頑張れ、しか言えないよなあ、と思うことがあるからだ。無論、そこまで真剣に紡がれた『頑張れ』ばかりではないのだろう、とは思う。思うけれど、たとえそこまで真剣に紡がれた『頑張れ』でなかったとしても、きちんと『あなたが大切だ』という気持ちを背景にしてくれた『頑張れ』がたくさんあるんじゃないのか、と思うのだ。批難には値しない素敵な『頑張れ』だってたくさんあるのではないか、と思うのだ。ということをきちんと見据えずに、頑張れは適当な応援だ、みたいな表現に惑わされて、安直に否定しないで欲しいなあ、とか考えていたのだった。おそらくは、真剣に紡がれた『頑張れ』に感動した経験があるからなんだろうな、と思う。要するに私は『頑張れ』が好きなのだ。