世界は称賛に値する

日記を書きます

おとなの小論文教室(山田ズーニー)

http://www.1101.com/essay/2000-09-20.html

おとなの小論文教室。

おとなの小論文教室。

P.92

やりたいことっていうのは、自分の内側の、
自分が求める世界観を形にしたいっていう思いでしかない。

外側から、社会が与えてくれた一つの職業のワクの中で、
例えば、俳優になってみたところで、
音楽家になってみたところで、
内なるものが満たされるかっていうと、決してそうではない。
例えば、中田がイタリアに行って、
自分の思うサッカーをしたいって言うでしょ。
それはやっぱり、思うような世界観があるんだと思うの、
サッカーの中においてね。
トッププレイヤーになろうが有名になろうが、
それが満たされない限りには、彼は自分の中で
「やった!」っていう想いにはならないんだろうね。
ただサッカー選手になるのじゃなくて、
思うようなサッカーがしたいってことにあるわけだよね。

私だって小説書いてて、
人が例えば面白いって言ってくれても、
自分が思う世界に到達してなかったら、
全然、満足感なんて得られないわけよ。
形上、ひとつの起承転結のある話を書いたとしてもね。
そこに私が思いいたすものが、
世界として立ち現れてこないっていうときは、
クズ同然だと思うからね。

それと同じようなもので、編集者になろうが、
お医者さんになろうが、それは与えられた記号なのね、
記号の中に盛り込まれている自分の世界が、
ある意味で見えてこない限りは、私は、大それて
「好きなことやってます」なんて言えないんじゃないか、
そういう気がしてしかたがないの。

それはもう、自分の中の「絶対価値」みたいなものを
いかに見つけていくか、みたいなことになってくると思う。
それは社会と照らして、自分が赤にそまっているとか
黄色にそまっているとかいうような、
何か社会を標準にして判断するようなものではなくて、
自分のなかでこれでよしとする
絶対的な価値観のようなものを形成していく
プロセスに近いと思うよ。

だけども、絶対的な価値観なんていうものは、
常に、常に、常に、揺るぎがあるもので、
そんなものよくわかんないのよ。
だから私は、揺らぎのなかでその時々の、
少なくとも自分の、その場持ってる
知恵と誠意をつくした限りの世界を、
そのつど、そのつど、出していくしかない。
それで100%でなくてもある程度の思いを満たし、
ああこれでどこまでその世界に近づけただろうって
懐疑的になったり自己満足に陥りながら、
自己確認していくしかないっていう、
その繰り返しだから。
だから、何かひとつのことをクリアして、
それで、好きなことに到達したなんてことは思えないしね。