世界は称賛に値する

日記を書きます

主観的な文章が良いのか、客観的な文章が良いのか

 主観性を主題に置いた文章にも独自の意味があるのだし、客観性を主題に置いた文章にだって独自の意味がある。どちらが正しい、どちらが優れている、どちらが良い、なんて短絡的なことはおそらく言えないんだと思う。どんな目的があるのか、に左右されるからだ。ということから少し考えていた。たぶん、誰もが心の奥に、さりげない、しかし切実な、目的、を抱えてしまっているのだと思う。人間が行う『正しい』とか『良い』とかいう発言は、つまり、その目的と照合して得られた結果を出力したものなのだ、というのが最近の私の世界観なのだ。要するに、誰だって独自の目的を持っているわけで、それに照らし合わせれば、主観的な文章が良いものに思えたり、客観的な文章が良いものに思えたりするのだろう、から、これじゃ駄目なのかな、とかいちいち思う必要はないよなあ、と思っているのだった。ただし、目的は経験とともに変化する。経験を積むごとに、さまざまな『必要性』に気づくだろう、し、その『必要性』が心に抱える『目的』を確実に変化させてしまうはずだ。どちらが良いのか、という判断も、それにともない変化していくに違いない。無論それも、気に病むようなことではない、と思う。判断、というものは、結局のところ、現時点までの経験だけを参考にして間欠的に行われるものだ、というのも私の世界観だからだ。今の私はこう判断する、としか人間には言えない、なんて思っているのだ。だから、とりあえずそれを言うしかないじゃないか、と思っているのだ。