世界は称賛に値する

日記を書きます

この動物はいったいなんだ

 いわゆる『名付ける』という行為は、いわば『これはこれに似ている』というラベルを貼り付ける行為なのではないか、という思考を数日前から続けていた。思考開始のきっかけは、たとえばこんな風だった――この動物はなんだ、と思ってしまうような見慣れぬ動物が目の前にいたとする。種類がよくわからない、というくらいの見慣れなさだと思って貰ってかまわない。私は不可解に思っている。なんだこれは、と思っている。で、飼い主が現れて、これは『犬』なんですよ、と教えてくれる。私はおそらくほっとする。ああこれは『犬』なのか、と思う。これを犬だと思ってしまっていいのか、とも思う。意識的に考えるわけではないかもしれないけれど、どこかではそんなようなことを感じて、心細さのようなものを感じなくなると思う。人間は事象に『名前』をつけることで支配者気分になって安心できるのだ、という発言を、以前に聞いたことがあったと思う。たぶんその発言の状況がこれなのだろう、と思う。とするなら、言語の持っているどんな機能が、そういった安心を生むのだろうか。という疑問は以前から考えていたことだった。