こうあるべき自分、は所詮自分ルールに過ぎず

 こうあるべき自分、なんてものはないのだろう。けど、実際は『こうあるべき自分』とやらに似たものを誰でも心に抱えているのだと思う。だから行動が選択できるのではないか、なんてことを考える。これから行うおのれの行動を想像して、これは駄目だな、と思えるのは、こうあるべき自分、と比較しているからなんじゃないのか、と考えていた。理想の自分が誰の胸の中にもある、ということを考えていたのだった。無論その理想を『こうあるべき自分』と呼ぶのは妥当ではないのかもしれない。基本的に『べき』という言葉は『ルール』を表現するために用いられる言葉であって、しかし『理想』というやつは決して『ルール』などではないからだ。人生には最初から決められた『ルール』なんてものはない、と私は考えている。強いて言うならば、こうあれ、という要請があるだけではないか、と思う。こうありたい、という自分の直観的な欲求や、こうあってくれればありがたい、という他人の判断が、おそらくはその要請を作り出す。無論、その要請から、こうあるべきだ、と勝手に『自分ルール』を設定するのは自由だろう。比較的良いことだ、とも思う。が、それはあくまでも『自分ルール』に過ぎない、ということを忘れてはなるまい、と思う。揺るぎない基礎だ、なんて盲信してしまうと、視野が狭くなるからだ。視野が狭くなって、制約が大きくなって、時には破綻してしまったりするからだ。