物理的な他者

 君と私は物理的に違う肉塊なのだから、君という物理現象の内部にあるものを、私が知りうるはずもない。というような言葉を聞いた。多少惹かれるものがあった。ので、思考対象に据えて考えてみた。思考や感覚の根拠を物理的な『脳』に求める態度や視座はそれなりに妥当なものだろう、と思える。だから、もしその命題を信じて前提とするなら、自分と他人がわかりあうことなど究極的には不可能である、ということが理解しやすくなるかもしれないな、なんて考えたのだった。自分と他人というのは言ってしまえば『物理的に異なる肉塊』である、ということを前提にするなら、相手の脳で起こっている反応を確認することなんてできやしない、というのは当然の帰結だろう、と思えたからだ。換言すれば、物理的に分断されているにもかかわらず内部の状態がわかるなんてことはむしろありえないだろうな、と考えることができた、わけである。建築の外装を眺めただけでは内装のことはわからない、というのと同じ構造を、思考や感覚などにも適用してみて、他人の行動や言葉を眺めただけでは脳内のことはわからない、と考えてみた、とも言える。そしてもし『物理的に異なるモデル』で考えるなら、人間が知りえるのは結局『自分の脳内で起きている反応』くらいのものだ、なんてことが言えたりするのではないか、と思えるし、人間にできるのは『おのれの脳内反応を解説すること』だけだ、なんてことだって言えたりするのではないか、とも思える。さらに言えば、その懸命で切実な解説こそが、つまりは『コミュニケーション』というやつなのではないか、なんて連想を働かせてみたわけである。が、無論、たとえ『心』をそんなモデルで捉えてみたところで、なぜ言葉は通じるのか、とか、他者には心があるのか、という哲学的難問奇問の答えが、たちどころに現れてくれたりするわけではない。である以上、あくまでも、他者や心というものはそういう側面から見ることもできる、というだけのことなんだけどね、と考える。