盲信が根拠を自覚していないことなら、すべての根拠を自覚しきれるのか

 盲信が嫌いだ。私の場合『盲信している状態』に染まってしまうよりも『盲信していない状態』を維持し続けたほうが理想に辿り着ける可能性が高いはずだ、と判断しているからだろう。私の抱く理想を実現させるためにはできるだけ『盲信しない人間』でいたほうがいいようだ――そう判断できるような経験を数多く重ねてきた、と言ってもいい。だからどうしても『盲信』には否定的な態度を取ってしまうのである。が、同時に私は、盲信から完璧に逃れることなど大抵の人間にはできないのだろう、と考えていたりもする。なぜなら、大抵の人間の思考力には限界があるからだ。どんなものであれ『AはBだ』などと語る命題には、それを支える支柱的命題が存在している、と言えるはずだ、と思う。言葉や概念というのは突き詰めれば『関係性』によって成立しているものだと思っているからだ。にもかかわらず、そういった関係性すべてを同時に思考対象に据えられるほど、大抵の人間の思考力は高性能ではないと推測される。ゆえに、人間ならばどうしても『関係性すべてを視界内に捉えきれていない言葉』を放たざるをえない、し、人間ならどうしても『無自覚な盲信』に頼らざるをえない、のだと思う。盲信が嫌いだ、とは間違いなく言える。が、盲信なんざ捨てちまえ、とは少し言いづらい。のはそのせいだ。いまいち頼りにならないのに、ほかに頼れるものはないんだよな、というような状態だと言える。