世界は称賛に値する

日記を書きます

哀しみを思わせてくれる言葉

 終幕を思う。終焉を思う。終極を思う。終わることはなぜか哀しいよな、ということについて考えていた。つまり、終わることに対して自動的に哀しさを感じてしまうような性質が私の心にはあるようだ、ということについて考えていたのだった。そして、終わりという言葉にはなぜか安直に『哀しみ』を想起させてしまうような効力があるようだ、ということについて考えていたのだった。最近は、そういう安易な効力にはあまり頼らないほうがいいのかな、なんて考えていたりもする。終わり、だとか、思い出、だとか、空、だとか、贈り物、だとか、どことなく『心震わせる』言葉、というのがたくさんあって、でも、その効果にあまり頼らないほうがいいのではないか、などと考えてみたわけだ。なぜか。安易な力を頼っていたら鍛錬にならないぜ、と想像しているからだ。安直な力に依存頼っていたらいつか痛い目見るぜ、と想像しているからだ。そして、まるで『哀しみ』の匂いを感じさせない言葉を、活用し尽くしてみせることで、いつか『哀しみ』を想起させられるような文章を書いてみたい、というような欲求を持っているからだ。安易かつ安直な方法に頼りながらそんな秀逸な力を手に入れることができるとでも思ってんのかよ、などと考えているわけである。できないことに対して『できるようになりたい』なんて思うのならば、とりあえず少しずつでもそれをやろうとしてみろよな、というような話か。