世界は称賛に値する

日記を書きます

誰かに優しくするために

 優しくするには覚悟がいる。人それぞれ価値観が違うから、優しくしたって『優しくされた』と思ってもらえるかなんてわからないし、もしも『優しくされた』と思ってもらえたとしても、そう思ってもらえることが目的になってしまっていたらそれは『優しさ』と呼ぶには値しないかもしれないし、優しくしても『優しくされた』と思ってもらえるかわからない、ということを自覚していても、というか、それを自覚しているならむしろそれは自己満足に過ぎないような気もするし、だから優しさは自己満足でいいのだよ、と開き直ってしまうならそれを『優しさ』を呼んでいいのかやっぱり疑問が残るし、優しくできる、と考えてしまうことがすでに傲慢な立場で、すでに『優しさ』ではないのでは、というような気もするし、甘やかすだけが優しさじゃないし、厳しくするだけが優しさじゃないし、優しくすることが最善の方法だ、と思って優しくしたのだとしても、所詮人間は完璧じゃないから本当にそれが最善かどうかなんてわからないし――。もしも、優しくしよう、なんてことを思うなら、たぶん、そういったものすべてに覚悟を決めてかからないとならないのだ、と考えている。考えすぎなのかもしれないけど。でも、好きな思考だ。