世界は称賛に値する

日記を書きます

我々は日記を書いているのか

 もしかすると『日記』という言葉が錯覚を生んでるんじゃないかな、と思った。個人的なものだったはずの日記をなぜ私たちは公開するようになったのか、というような、書かれている文章が日記であることを前提にしている言説、に、軽い違和感を覚えてしまったからだ。書かれているものを『日記』と呼んでしまっていいのだろうか、というような疑問を覚えてしまったわけである。考えてみよう、と思った。まず考えたのは、独白を記録する『日記』という文章形式がもともとあったんだよな、ということだった。次に考えたのが、誰でも文章を公開することができるネットという『場』ができたわけだ、ということだった。結果として、その『場』で公開される文章の中に『日記』という文章形式を踏襲したものが誕生しただけなんじゃないのか、という思考に達した。つまり、ネットが普及したことにより日記が公開されるようになった、わけではなくて、ネットで公開する文章が考えられたときに日記的なものが模倣されたのではないか、という思考だった。