犬とデカルト(「で、みちアキはどうするの」)

http://d.hatena.ne.jp/michiaki/20050926#1127745320

で、デカルトは「我思う〜」を起点にさだめ、過去のMも「そうだよなぁ、デカルトすごいなぁ」と思っていたわけですが、ここ最近のMはそうではない。それじゃだめだ、と考えていました。だいたい、「わたしとは何か?」なんて哲学の永遠のテーマじゃないですか。そんなもの(我)を自明の言葉として2回も使っちゃってるし。「思う」ってのもよくわからない(と思う)し。それに「A故にB」、「AはBの原因である」なんて推論を、何も明らかでないうちから「成り立つもの」として前提していいのかなぁ?

そうMは思った。デカルトの築いた前線はヤワ過ぎる。こんなの守りきれねえ! そして後退につぐ後退、それでついに「もう下がれません」という場所に至りました。それが「何かがある」です(誰かフランス語にしてください)。これ以上は退却不能でしょう。打ち破れもしない、よじ登れもしない、回り込めもしない絶対の絶壁だと思います。たとえMがその前に撃たれ崩れ落ちようとも、この壁は残るでしょう。だいたいこれ、否定できません(ちょっとメタ入ってるし)。これについて否定的な何かを言おうものなら、Mから「でも、あなたが言ってるその“何か”は存在するでしょ?」とツッコミが入ります。

Mとしてはこの「何かがある」をすべての基盤として考えていきたいと思ってます。ただね、壊しすぎです。あんまり派手にぶっ壊したのでもう材料がないというか、いったいこの「何かがある」の上にどうやって建物を築いていったらよいのか? それがいま、問われているわけです。途方に暮れているというか。もう疑い深さではデカルトに勝っちゃってるのではないか?

 頭がまわる、ということと、おもしろいことが言える、ということは、おそらく等号では結べない。が、同時に、無関係というわけでもない、とも思う。要は、ひと言に『頭がまわる』って言ってもいろいろな要素があるからね、ということなのだと思う。私は昔から『明哲であること』と『ユーモラスであること』を両立させている人物が好きだ。理想の形の一つだ、と考えている。おそらく、それらがあればこの世界でよりうまく立ち回ることができるのではないか、と想像しているのだろう。というわけで、賢明な話題をおもしろく語っている人、には感謝じみた称賛を覚えるのだった。笑った。考えさせられた。