世界は称賛に値する

日記を書きます

断罪する根拠

 これをするのはやめよう、とか、これはしちゃいけない、とか、そういったことを考えているとき、人はおおむねすでにそれを『してしまっている』ものだと思う。ここ最近の私は、他人の生き様をおのれの美意識で評価する、という行為に対して、これをするのはやめよう、と考えている。無論、すでに自分がそれをしてしまっているからだ。そしてそれは、私がそういった行為を『良いもの』だとは考えていない(逆に言えば、そういった行為を『悪いもの』つまり『自分に不利益をもたらすもの』だと考えている)ことを意味してもいる。とはいえ、私は、人の生き様を評価する、という行為そのものに問題があると考えているわけではない。評価するという行為自体に良いも悪いもあるまい、というのが私の基本的なスタンスだからだ。つまり、私が感じている問題は別のところにある。それは《頻度の問題》とでも言うべき問題――別にやってること自体は悪いことじゃないけどそればっかりじゃ駄目だろ、という問題だ。同じことばかりやっていると、その習慣はいずれ癖になるし、人格に組み込まれてしまうことさえある。そして、もしもそれが癖になってしまったら、おそらく私は、おのれの行うその行為を客観的に見ることができなくなってしまうだろう。少なくとも、感覚が鈍ってその行為が持つ可能性を意識の外の置いてしまう可能性は高い。そして、気にしなくなった結果、ともすれば私はそれを、他人を断罪する根拠に使い始めてしまうかもしれない。それが嫌なのだ。今の私は、生き様を評価する、という行為をある程度客観視することができているから、いくら私が他人の人生を評価し、たとえ蔑視したとしても、それが他人を断罪する根拠になどならない、ということを理解している。たとえばそれは、私が誰かの生き様をおのれの美意識に沿って評価して、もしも、駄目だ、と思ったとしても、オマエのやってることなんて無価値なんだからやめろ、と言ったり、オマエのやってることなんてゴミ同然だぜ、という態度で接したり、そういった《断罪的な行為》が許されるわけではない、ということである。それくらいじゃ正当化する根拠にはならん、という話だ。だが、もしもそれが悪癖と化して鈍感になってしまったら、私は、その『正当化の根拠になどならない』ということを忘れてしまうかもしれない。それを根拠に人に文句をつけまくる無自覚な阿呆になってしまうかもしれない。それが怖いのだ。だから、習慣にならないようにしよう、と考えているのだ。

▼編集前
 これをするのはやめよう、とか、これはしちゃいけない、といったことを考えているとき、おおむねそれはもうすでに『してしまっている』ものだと思う。ここ最近私は、他人の生き方を観察して、コイツのはいいけどコイツのは駄目、というようなことを考える時間を増やしてしまっている。だからこそ、それに不満を覚えて、そういったことはやめよう、と考えているわけだ。ただし私は、その行為そのものに不満を覚えているわけではない。自分の美意識で目の前のものを評価する、という行為自体に問題があるとは思えないし、その対象が《他人の人生》になったとしても、そこでその行為が唐突に悪しきものに変わるとも思えないからだ。私が不満を感じている問題は、その先にある。問題はおおむねふたつだ。ひとつは時間配分の問題であり、もうひとつはその評価の利用方法の問題である。言い換えるなら、そんなことやってる時間あんのかよ、という問題と、勝手に良いとか悪いとか判断したところでそれがオマエの断罪的行為を正当化する根拠にはならねえんだぜ、という問題だ。後者については、たとえばこう考える。私がおのれの持つ美意識に沿って誰かの人生を「駄目すぎ」と判断したとしても、オマエのやってることは無価値だからやめろ、と言ったり、オマエのやってることなんてゴミ同然だという態度で接したりする《人を断罪するような行為》が、正当化されるわけではない、ということだ。安易に説教してしまう行為なんかも同様だ。でもたぶん最近の私は、そういった傾向を持ってしまっている。それがものすごく気に喰わない。改善点だ、と考えている。

 おそらく私は、他人の人生を評価してばかりになって、それが癖になってしまって、いずれそれが人格にすらなって、自分が無自覚な愚鈍を抱えてしまうのが嫌なんだろう。そればっかやってると癖になるから!という問題だ。そしてそれが人格になって、まわりが見なくなって、断罪することを常態とみなす、自覚のない莫迦になってしまうのも、当然嫌なんだろう。不満の根拠をきちんと掴みきれていなかったな、と思う。