世界は称賛に値する

日記を書きます

強い存在感、重い出来事

 思考が混濁してしまったようなのでシンプルに捉えなおす。友人が憂鬱になっているのは、ひと言で言えばフラれたからだ。厳密にはまだきちんとはフラれていないと言っていいのかもしれないが、もとの状態に戻ることはおそらくないだろうと推測される。まずは基本的なところから定義しなおそう。友人は彼女のことが好きだった。それはつまり、彼の心の大きな何割かを彼女という存在が占めていた、ということであり、さらに言い換えればそれは、彼女の影響を受けやすい心情であった、ということだ。好きだ、という感覚は、おおむね、その人の存在が心の中で大きな部分を占めている、ということを意味するのだと私は思う。そして、人間が心に受ける影響は、影響を与える人間の持つ存在感の大きさと、出来事の持つ重量、が掛け合わされて決定される、と私は考えている。自分の心の中に大きな存在として存在している人間からは、些細なことでも大きな影響を受けたりするし、比較的どうでもいい人であっても、重大なことをされれば影響を受ける、というわけだ。好きな人からならば些細な言葉をかけられるんでも嬉しいし、普段あまり気にしていない人でも突然死んだりしたら大きな衝撃を受ける、ということである。その友人にとって彼女は『大きな存在』であったし、彼女の不義理は『重い出来事』であった。だから、彼がその出来事に大きな影響を受けて、でもって自分に価値を感じる根拠を失いさえして、結果として大きな傷を負うのは、当然と言えば当然の帰結だったのだろう。となると、すぐに回復、というわけにはいかないか。好きになるのもラクじゃないよな。