同質に惑わされるな

 アイツのそのへんは確かに悪いところだと思うけど、自分の人格を削り取っていくと俺の中にも同じものがある、と感じてしまうところがあるから、いまいち糾弾する気持ちになれない。共感することで、どこか許せてしまってるんだと思う。というような話をしたら、でもアンタは結局のところ実際のところ彼と同じようなことはしてないわけで、そのことをもっとちゃんと考えるべきなんじゃないか、というようなことを言われた。確かにそうかもしれない、と思った。そして、連想的に、ある種の思考の際にもその理論は転用できるよな、と思った。たとえばメタ的な自己言及(正確に言うなら自分の発言や思考を対象にした描写)あたりがそうだから、そのへんを例に挙げて考えてみよう。まずは適当に自己言及してみることにする。俺は今メタなんていう厄介なものをネタに思考しているぜ、という感じかな。とりあえず私はそんな発言をすることができるわけだけど、俺は今メタなんていう厄介なものをネタにして思考しているぜ、と言おうと俺は今思考してるようだ、と発言することだって可能だし、俺は今メタなんていう厄介なものをネタにして思考しているぜ、と俺は思考してるんだ、という発言も許されるよなと今考えている、なんてこんがらがりそうなことを言うことも可能だ。その下に、さらに『というようなことを言おうと思っているわけだけど』と付けることだってできる。けれど、普通はそんなことしない。面倒くさくなって途中でやめるからだ。私は『メタ』というものについて考える時、単に『構造がそういう仕組み(永続的に繰り返せる)になっている』という理解で終わらせてしまうことが多いのだけど、それだけじゃなくて、その『確かに何度も繰り返すことができるメタメタな構造だったりするんだけど、でも実際はやらないよな』ということもまた重要なんじゃないか、なんてことを思ったのだった。理論の場におけるの理解だけでなく、実践の場における理解も重要、とまとめられるかな。理論上、君は彼と同じ弱さを持っているのかもしれないけれど、結局のところ実際にはそれをやってはいないわけで、つまり少なくとも君と彼が完全に同値なわけではない。同値でない以上どこかに違いがあるわけだから、その差異に目を向けないのは片手落ちじゃね? というわけだ。