疲れたという発言がもたらすもの

▼疲れている、というようなことをあまり言いたくないな、と思っている。明確な理由はふたつ。ひとつは、ネガティブなイメージをできるだけ私のまわりから遠ざけておきたいと考えているから、で、もうひとつは、そういった発言が過剰な自己認識に繋がってしまうことを危惧しているから、である。▼疲れた、なんていつも言っている人間は、比較的ネガティブなイメージを抱かれやすい、と思う。その人のやっていることが大変そうに見えなければなおさらだろう。そして、そういったイメージでほかの人から見られている光景というのは、私がおのれに求める理想像ではない。むしろ、それとは逆のイメージを人に与えられる人間であれればな、と考えている。そういう人間であろうすることを選ぶ人生のほうが、美しい、と感じるからだ。ただし、疲れた、という言葉が、単純にそのまま直結でネガティブなイメージに繋がるわけではない。言葉が人に与えるイメージは状況や発言者によって変わるからである。いつでも人に同じイメージを与えるような、絶対的な言葉なんてものはない、のだ。というわけで、私の『疲れたという発言は人にネガティブなイメージを与えやすいようだ』という判断は、経験的なものだと言っていい。そして私は、その経験からくる判断にしたがって、他人にネガティブなイメージを与えるであろう言葉の使用をコントロールしたいと考えている。▼発言は自己暗示にも繋がる。口にしたことがおのれの感覚を変えることがあるのだ。寒い寒い言ってるから余計に寒く感じるんだよ、という台詞のなかにある論理だと言えるだろう。たとえ普通なら寒いと思うような状況のなかでも、楽しいことに夢中になっていればいつの間にかそれを気にしなくなっていることがあるように、気にする気にしないが、感覚を変化させることは少なくない。言葉にする、というのはおおむね、気にする、ということだから、当然それが感覚を変化させることもある。つまり、疲れた、と口にすることが、感覚を変化させ、余計な疲れを捏造することだってあるのだ。私はそれが怖い。たいして疲れてもいないのに、そんな風に勝手に疲れた気になって、最終的にはやる気を減退させてしまう、みたいな状況が嫌なのだ。▼というわけで、疲れた、とか口にするのはあんまり好きじゃないなと思う。