世界は称賛に値する

日記を書きます

相変わらず文章のわかりやすさについて

▼文章を書くのは好きだが、自分に『わかりやすく書く技術』がないことには、ずっとあきれている。わかりやすさを追求しようとは思っているし、文章を書くときも、それを意識して書いている。にもかかわらず、わかりづらいなあ、と嘆息してしまうようなことがあるのだ。▼昨日の文章にしてもそうだ。昨日の文章で対象にしていたのは、はてなの住所登録、という旬のものだったから、ほかのサイトで『私が感じたのと同じようなことを言っている』意見を見ることも、少なからずあった。そのせいで、いつもより余計に、私の文章の『わかりづらさ』が浮き彫りになったのである。それらの『私が感じたのと同じことを言っている』文章が、私のものより、おおむね簡潔で、おおむねわかりやすかったからだ。そして、おもしろかった。正直、おのれの力量不足に苦悶の声でもあげたくなる一瞬だった、と言っていい。▼なんでこんなに悔しいのだろう、とふと考える。行き着く解答は、やはり、私が『賢さ』を求めているから、なのだろう。私は『賢さ』というものに対して、わかりやすく思考を説明できること、と定義しているフシがある。それが『賢さ』のすべてではないにせよ、必要条件ではある、程度のことは考えているらしい。