世界は称賛に値する

日記を書きます

あなたが失礼だから私も失礼

▼あいつがやらないんだから俺もやらない、とか、あいつが先にやったんだから同じことをやり返してやる、とか、そんなようなことを本気で言ってしまう(正確には本気じゃないのかもしれないが、そう見える)人間が時おりいて、あきれることがある。自分の行動を正当化するために、自分の行動の責任を他人に求めて『自分が正しい!』と満足してしまうような『弱さ』を、わざわざ見せつけないで欲しい。私は、おのれのとった『行動の責任』を、きちんとおのれの『選択』に帰結できる人が好きだし、そういう人を尊敬しているのだ。なぜならそこには『強さ』が必要だからである。▼そりゃあ、人のせいにしてしまえばラクだろう。サボる理由だって下種な行動を選択する理由だって、あいつが悪いんだからやる(だから自分は悪くない)と、心の底から考えてしまえば、罪悪感を感じずに済むことだってあるに違いない。責任問題というのは、結局、おのおのが問題の発端をどこに捉えるか、という問題から離れられないし、であるから当然、その責任を、自分自身とは関係のない気楽なところに求めて事態を把握することも、さほど難しいことではあるまい。認識の歪みに気づける客観性を保持していなければなおさらだろう。しかし、行為を選択するのはやはり自分ではないのか? ほかの誰かが『選択する意志なんてまったくないのに勝手に選択しやがった』わけではあるまい。だとすれば、その選択の責任はどこにあるのだ。そもそも、責任とは何者で、どうやったら追求できるのか、とも思う。法学でも学べば模範的で定義的な解答はあるのかもしれないが、しかし『なんか違う』のは確かだ。▼A君が陰口を言っていたので、B君は同じように陰口を叩いてやりました。A君が陰口を叩いていたけれど、C君はあえてやりませんでした。B君はあっさり、あいつが先にやったんだからいいじゃん、と言う。しかし、本当にそれは『いい』のか?