世界は称賛に値する

日記を書きます

エンジェルハウリング10(秋田禎信)

エンジェル・ハウリング〈10〉愛の言葉‐from the aspect of FURIU (富士見ファンタジア文庫)

エンジェル・ハウリング〈10〉愛の言葉‐from the aspect of FURIU (富士見ファンタジア文庫)

▼最終巻。おもしろかった、ということを先に書いておこう。これは無論、この一冊の感想であり、同時に、シリーズを通しての感想でもある。言わずもがなじゃないか、なんて思ってしまう人格も私の中にはいる、くらいにおもしろかったと思う。▼絶対殺人武器であるミズー・ビアンカと、最強の破壊精霊を所有するフリウ・ハウスコー。ふたりを描いたこの小説は、奇数巻と偶数巻で主人公が違う。奇数の主人公はミズーで、偶数の主人公はフリウだ。あえて比較をするなら(意味があるかどうかは置いておく。楽しんだ印象だけを比較すれば、だ)ミズー編の方が私はお気に入り、のような気がする。本当になんとなくだし、わずかな差だが、そういう感触がある、のだ。なんて構成についての解説や感想まで入れていくと長くなるな。まあいい。▼オーフェンの時からそうだが、私は秋田禎信氏の書く『戦闘』が好きだ。描写が緻密、と言っていいのかわからない(実際の戦いについてたいして知っているわけじゃないから、判断基準が曖昧なのだ)が、描写に、ある程度の真実味を味合わせてくれる雰囲気があるのは確かだと思う。それが特に好きなのである。そして、その雰囲気が濃密だったのが、ミズー編だった。まあ暗殺者として生きるミズーの物語と、精霊を宿らせているだけのフリウの物語で、戦闘の位置づけが変わるのは、当然だろう。その差がつまり、愉悦の差に繋がったのだと思う。しかしこういう文章は、書いていてやっぱり気持ち悪いな。一方を持ち上げると、どうしても、もう一方が悪かったかのように聞こえてしまう。だから、ミズー編賛歌はここまでだ。▼最終巻は偶数巻なので、フリウ編。精霊アマワの存在や行動を、物語の背景に据えるなら、フリウ編で物語が閉じるのは当然なのだろうな、と思った。ミズーもアマワを追ってはいたが、それは、アストラの意思(あるいはアストラ自身)を追うためのプロセスに過ぎず、アマワ自身とはほとんど無関係だった。邪魔をするなら殺す、といった態度でしかなかった。けれどフリウは違う。フリウも、確かに最初は、義父であるベスポルトのあとを追っていただけだった。が、その義父の目的を知り、同調し、彼女は義父同様アマワを追った。アマワの問いに立ち向かった。だから、アマワの問いに答えるのは誰なのか、と言えば、それはきっと、フリウになるのだろう。ただし、ミズーはそれに答えられなかったのか、と言われれば、それにも否定を返すべきか。物語はどちらも、きちんと閉じた。▼アマワが問い続けていたのは、心の実在であり、それは、心を疑うこと、だった。このへんまで考えると、いろいろと書きたいことはあるな……。この本については再度書くかもしれない。