定義の甘さと曖昧さ

▼昨日の『理想を追うこと』についての話には、納得のいかないものを感じていた。私が実際に『書きたい』と思っていたのとは、違うことを書いていたからだろう。なんか違うな、と思いながら、それでも、ひとつの思考として書いていた。しかし、これは私が書こうとしていたものとは違うんじゃないか、という違和感は、確実に残った。それがどうにも気持ち悪くて、どこが違うのか、ということを、今日はかなり考えてしまった。ある程度の解答も得たように思う。というわけで仕切り直しだ。▼理想を追う、なんてひと言で言っても、実際にはいろいろな種類があって、追うのに必要な難易度や時間だって、当然そのそれぞれで違う。のだから、理想を追うのは時間がかかる、なんて断言してしまっているような昨日の判断は、非論理的であり、浅はかだとすら言える。そもそも、理想を追う、なんて簡単に言うが、追う対象となる『理想』が、一様ではないのだ。理想には、大きな理想もあれば、小さな理想もある。崇高な理想があれば、愚昧な理想だってありうるだろう。時には具体的な理想があり、時には抽象的な理想があるに違いない。肉体的な理想と精神的な理想、というような区別だって考えられる。それだけの種類があれば、そこへ至る道のりだって、それぞれで違うのは当然だろう。と考えれば、理想を追う、ということに対して、一概に『大変だ』とか『時間がかかる』なんて言うことはできない。▼確かに、時間が少なければ、至るのに時間のかかる種類の『理想』を追うのは難しくなるに違いない。そこでは『理想を追う』ということを選択肢に組み込まないことだって、当然考えられる。私が昨日の話題の中で考えた『理想』というのは結局、そういった考えの中での『理想』が持つ性質に過ぎず、私たちが持ちうる『理想』というもののを包括的に捉えているわけではなかったわけだ。視野が狭く、定義が甘かった、と言っていい。ま、気づくのが遅い、とは思います。そしてそのせいで、話もズレてしまったわけである。