世界は称賛に値する

日記を書きます

▼たとえばポストモダン的領域に属するであろう意味論なんかを、現状の私がほとんど理解していない(できていない)せいか、そのあたりで行われている思索に対して、特にそう思わされる。とりあえず、今の私が持っている《意味》に対する《解釈》はこんな感じだ。まず事象(世界、と言ってもいい)があって、それを人間が知覚して、自分の納得できる形状で心のなかへ取り込む。その過程/動作を解釈と呼び、その結果、人間の心の内部に出現した認識の形状を、意味と呼ぶ。まあおそらく、この比較的短絡的な《意味に対する解釈》には穴があるだろうが、逐一潰してこくことができないほどの大きな矛盾ではないと思う。そして、この例において《意味》が位置しているところが《事象/世界》とやらの一例であり、その《意味》に対して出力した思考が、つまりは《解釈》である。私は基本的に、こういう構図で《意味》というものを捉えているわけだけど、こんな簡単な考え方でいいのだろうか、というか、もうちょっと疑ったり考えたりしてみた方がいーんじゃないのか?的なことを最近はかなり思う。未知の意味論のなかに、ほかの形を持っているものがあることを知ったせいだ。そして、それを私が理解できていないせいだ。まあ当然のことだけど、人間は、理解できないものを、理解できない。だからそういう場面では、結果的に、ないのと同じことになったりもする。そんなわけだから、人は、理解したいものを理解する――というよりは、理解できるものから選んで納得する、ということしかできないし、していないのであり、それじゃ駄目かな、と思ったのだった。言い換えれば、馬鹿だからわかるようにしか理解しません、という態度は許されるのか、という問題と言えよう。許すのはもちろん自分自身である。そして、私は許したいとは思わない。