世界は称賛に値する

日記を書きます

▼なんでもいいからとりあえず書き出してみればわりと書き進められるもんだ、というような判断を最近は持っていて、実際、軽く書いてみただけなのに気がついたらこんなに大量の文章が! みたいなことは少なくない。しかし、そう考えると、不思議に思うことがある。なんというか、今までもずっと日記を書き連ねてきている(途中途中で間が空いているとはいえ、四年くらいは書き続けている)のに、その間に、そういった判断に至ることはなかったのか、という疑問だ。で、まあ答えとしては、あるのだろうな、と思う。人間は基本的に、いろいろな判断を下しながら生きているわけだけど、その判断のすべてを記憶しているわけではない、はずだ。だから、過去に下した判断と同じ判断を、同じように下していることだってあるのだろう。というようなことをふと思考したのだけど、これはある意味で単なる記憶力の弱さの正当化的なものであり、どうでもいいかもな……。連想して思い浮かんだのは、高畑京一郎の『タイムリープ』なんかで採用されていた『人間はまったく同じ場面に出くわせば同じ判断を下す』という設定だった。もちろん実際の世界には、まったく同じ場面、なんてものはない。時は不可逆だからだ。なので、その設定が正しいかどうかは証明不可能だ、と言える。出来事に対して私たちが、どれほど「似ている」と思っても、それは、人間の持つ、事象を一般化しようとする性質、と、観察力不足、のせいであり、実際には、完全無欠に《同じ》なんてことはありえない。が、似てる場面、というものが私たちにはあるのも、まあ間違いのないところではあり、そういった状況に陥れば、やはり同じような判断を下すのかもしれないな、と考えたのだった。