世界は称賛に値する

日記を書きます

▼文章を書くなら、内容についてだけでなく表現方法についても考えろ、みたいな思考をしている時期があった。過去の日記を読み返していて、文章の裏にその思想を感じる時期があった、と言えるし、実際に明文化しているところもわずかにあった。いくら文章を書いても、読み手に読みたいと思わせられなければ、意味がない。というか、意味というのは読まれた時に生まれるものなのだから、読み手に読まれないのならば、意味がないということすら言えないほどに無駄、なのであり、そのことは、当時の私もわかっていたらしい。最近、永江朗の『〈不良〉のための文章術』を読んで、プロのライターの心構え、というようなものを意識しているのだけど、そこで語られていた心構えと、当時の自分が意識していた(最近は多少鈍磨していたと正直思う)文章に対する思想に関しては、ほぼ同質のものだ、と言っていいだろう。ライターというものは、文章を提供して収入を得る職業だ。そして、読まれない文章に価値は生まれない、わけだから、読まれないライターには価値が生まれず、そのライターは淘汰される、というわけだ。意味を持たせたい、という欲求と、収入を得なければならない、という欲求が目指すところは、だから、同じところに落ち着く、と言っていいだろう。特別ライターを目指しているわけではないのだけれど、数年前の私が抱いていた感情が、応用することで、職業的文章家に必要な意識に変更できる、ということは、その本を読みながら、なんとなく考えていたことだった。