世界は称賛に値する

日記を書きます

▼途中で何度か間が空いてしまっているものの、日記そのものはもう四年くらい前からこうして書いていて、たまに、昔の文章を読み返すこともある。そういった場合、基本的には、気恥ずかしさ、みたいなものを感じる。そこに、思慮の浅さというか、視野の狭さというか、そういった、総括するなら《幼さ》みたいなものを、感じてしまうからだ。今なら(着実に歩みを進めてきたことで)それなりに意見のまとまっている領域について、明らかに迷っていた気配なんかを感じたりすると、特にそう思う。ただ、思索のベクトルだとか、言葉の選択傾向だとか、そういった部分に関しては、大差ないな、と思うところも多い。そのあたりについては、好感が持てる、とも言えるだろう。おもしろい、と言っても、まあいい。ただし、本当に初期の頃の日記については、なんとも言えない複雑な感情を覚える部分も少なくない。それは、なんというか、その文章のなかに、おもしろくしてやろう、的な思想が強く読み取れるせいだ。そのせいで、読んでいて、特に恥ずかしく思う。無論、若かった、というのはいまさらどうしようもない面なのだし、今とは想定している読み手も違っている(それらの文章群は、内輪向けのものだった)わけだから、あれはあれで、しかたない、というか、許容すべきところなのだろう。が、思索の甘さと鈍さから、愚考をさらしているところが少なからずあって、やはり悔しさは禁じえない。