世界は称賛に値する

日記を書きます

▼人を傷つける、ということ。それと関連して、というか対比して、あるいは同じ問題として、人を大切にする、ということ。どんなに考えてもそれは簡単に答えの出せるような話ではなく、一般化して考えることすら実は無意味と言ってしまえるような、複雑な話なのかもしれないけれど、考えないわけにはいかない問題、とも言えると思う。友人のひとりが、別の友人にいろいろと言われて、へこんでいる――というような状況を見る時、その傷つけた側になっている友人は、傷つけた、ということについて、どれほど意識的なのだろう、と考えてしまう。かつての私がそういったことに無自覚だったから、余計にそう思うのかもしれない。私は、自分に対して、自分が誰かを傷つけるということに実感的に気がつくまで、時間がかかりすぎた人間だ、と考えている。愚鈍すぎる、というか、遅すぎる、と文句を言いたくなるほど、だ。しかし、今はある程度、わかっているつもり、である。おのれの内にそういった意識がまったくないのだとしても、私たちは人を傷つけるし、傷つけられた側の人間にとっては、傷つけた側の無邪気さも、時にはありうる友愛でさえも、免罪符にはならないのだ、ということを。軽口のつもりで、悪意なんてさらさらないまま、言葉だけで、嘲笑したり愚弄したりすることが確かにあって、それが冗談だとわかっていれば無論それを「楽しい会話」と言うこともできるのだけど、いつだってそれが楽しさだけで満たされるとは限らない。その危うさを忘れてはならない、と思う。