世界は称賛に値する

日記を書きます

▼あるレベルの知性を獲得しているならば、いつでもその人はその知性に見合った文章を出力できるはず――というような妄想的な(とか自分で言うのもなんだが)信念が私にはおそらくあって、私が賢さを求めようとしているのも、その信念にのっとった結果なのだと言える。しかし実際のところ、それは本当に《妄想》と言ってしまっていいような短絡的判断であって、それを保証してくれる根拠などどこにもない。むしろ、知性というものは一定の数値を保ち続けるような性質のものではない、と言ってしまったほうが正確な判断なのだと思う。たとえ同一の人物でも、人には、賢い時と賢くない時がある、のだ。にもかかわらず、私は、人に対して、安定した知性、というものを無意識的に前提としてしまうから、そのせいで、たとえば《ひとりの小説家が書くもののなかに、おもしろいものとそうでないものがある》ということに対して、不満みたいなものを感じたりもしてしまう。一度あんなふうにおもしろいものを書けた人間が、同じ知性を持っていながら、なぜ再度同じレベルのものを書けないのか、というような疑問を覚えてしまうわけである。