世界は称賛に値する

日記を書きます

向きの種類

▼▼端的にただそこにあるだけ、というような、フラットで意味や価値から離れているようなものに対してであっても、面白さ、美しさ、気持ちよさ、好きさ、といったものをもとに、人は勝手に「方向性」を付与できる。向かうところ、向かうべきところ、向き、というようなものを、主観的に見つめられるな、って思った。
▼▼ある物事が最初から持つような目的みたいなものと、観測者が勝手に付与し始めるそういったものの、区別って、できているかなー、というかできるのかなー、というような疑問を持ったのだった。物事それぞれの体感の中に感じている向きを意識できていて種類なんかも区別できているんだろうか。
▼▼作られた目的や生まれた目的、使命や運命や役割、価値、意味、といったものが取り沙汰されているような時に、向き、が大切になってきてはいそうだ、とは思った。向きの有無、向きの強制、向きの決定権、向きの自覚、向きの自由、向きの錯覚、向きに対する信奉、といったあたりの認識と操作に興味を持っている雰囲気だ。

話のコネクタをふわっとさせる

▼▼抽象化して抽象的な話にすることで接続端子が増やせる印象はある。いろいろな具体例に繋げられるようになる印象だ。曖昧化、というような言葉も思いついた。ぼんやりし始める。ぼんやりしているおかげでいろいろなところに繋がりやすくなる、という形状である。まあ、コネクタの物量自体が増えるというよりは、同型のコネクタでありつつ「通せるデータの種類」が増える雰囲気かなあ、とも思う。ネットワークプロトコルの相互認証が雑になる、的なことかも、とも思った。


▼▼曖昧な話、ぼんやりした話、抽象的な話、によって、いろいろなところに繋がりやすい形状で、話を、出せる。結果、互いが「理解」した気持ちのまま話を進めていく、っていうことが構造的に実現しやすくなる。
▼▼なんていうような目的がある時ならば、このあたりのことを意識しつつ話を進めていくことは、非常によいことなんだろう、ということも合わせて思った。理解と不可解のコントロールやメリハリを活用したい時なんかだと、特にあつかいが重要そう。


▼▼(抽象化すると曖昧なまま話を進められるのスゴイ!といったことだけ書かれた遥か昔のメモが見つかったので、着想を奪って書いた)

言葉に鋭さなんてあるんすかね

▼▼鋭い一言、言葉の切れ味、というような言葉に対する信奉や心酔がすごくて、言葉に「すぱっ」としたイメージくっつけることにぜんぜん違和や疑問を覚えられなかったりするんだけど、言葉というものに軽々しく切断的な心象くっつけるの、ほんとうに妥当なのかなあ、って整理的に思った。言葉を受けて衝撃や感銘を受けてびっくりしたような時には、斬られた!的な体感を覚えている、気はするけれど、このあたりの感覚や精神のことを、もっと細かく見てみてもよいのでは、って思った。

素敵日記は何処にゆく

▼▼ぼくの思っている「素敵な日記」が現出しやすいところって、最近はもうホームページやブログではなくなってきているのかなー(ぜんぜん知らないところで顕現するようになってたら嫌だな)(そもそも出てきにくくなってきていたらなおさら嫌だ)、とかは思うようになってきている昨今の状況ではある。うーん、でも、芸術とか創作とか表現とかいった「身近さや気軽さとは少し違うところ」に重心が移ってるだけならまあよいか? 身近さや気軽さが減るのってやはり好ましくない気もしつつだけれど。

ハンザテウトニカやイリュージョンで遊びました(ボードゲームカフェ)

▼▼ぜんぜん勝てないなー、推理とか思考とかってどうやるのが適切なんだっけなー、というような疑問が出てくるくらいには敗北が重なるところがあった。頭の使いかたに意識が向いた。のだけど、それでも問題なく楽しくて、こういった素晴らしい景色がこのあたりにはまあまああるよなあ、と思った。悔しがりと楽しさが響き合ってる景色は気持ちよい。といった満足と充実を得つつ皆様と遊んできた。『ハンザテウトニカ』→『ノートルダム』→『イリュージョン』という順番で遊んだ。


ハンザテウトニカ(プレイ二回目)

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▼▼ほんの少しの優位性を逐一見通していく、というのができていなかった気がする。






ノートルダム(初プレイ)

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▼▼上記と同じようなノリで負けた気がする。念願なところあって、やっと遊べた。






イリュージョン(プレイ二回目)

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▼▼面積のおおきさの観察眼勝負。優れた観察者が揃っていた雰囲気だった。

写真ぱしぱし撮って手軽に可能性無限大(正当諦め)

▼▼んなもんないよということは判るようになってきたのだけどなんとなく頭のどこかでは正解や最適解や唯一解があるような気分で接してしまっている──答え探しをするような心境で取り扱ってしまっている、というような状況が、やっぱりある。芸術や創作や表現といった分野でもわりとそうだ(人生という空間に向けても、まあ、けっこうやってしまっているんじゃないかと思うけれど)。


▼▼写真における素敵さや駄目さ、って、ほんとうにわずかな位置取りの違いだけで、おおきく変わる。まったく違って見える。数ミリの違いを組み合わせ続けていくだけで、無数の写真を撮ることができるし、無数の中で、良し悪しが毎回おおきく変わる。すごいよい!すごくだめ!の境目が、非常にシビアだ。ということが、最近ようやく、くっきりと理解できてきていて、写真を撮る、という表現形式に対しては、最適解、唯一解、というようなものを、あまり追い求めようと思えなくなってきた。数千枚くらい撮ろうと思えばあっさり撮れてしまうのに、その数千枚の中に唯一の「正しさ」があるとか思うの、おかしいでしょ、って、瞬時に想像できるようになってきた。無数の、大量の、可能性が、わかりやすく「顕現」してくれるおかげで、あ、無理や、って思えるようになった。


▼▼小説(文字・文章)とか絵って、写真と比べると、無数の可能性が目の前に気軽に沢山並んでくれるわけではないせいか、これまであんまり、あ、こんなに沢山「可能性」があるなら正解探しはやめときましょう、てか無駄じゃん、って思えたことがなかった、気がする。習作を沢山書くことで目の前に並べてみせて、その可能性のおおきさに、驚きと呆れと面白みを覚える、みたいな切り口も、とはいえあるはずなので、そういう修練をあんまり積めていなかったことが、結局駄目だったんじゃないすかねえ、ということも合わせて思った。とにかく書きまくってみろ、というような指南は、このあたりを実感させる効果も果たしているのだろうな、って想像できた。


▼▼とは言いつつ、写真からの学びからの転用によって、最近は、文字や絵にも、正解探し気分、を持ちこまずに済むようになってきたところがあるかと思う。言葉上では判っていた「正解がある、とか思うのやめなよね」っていうツッコミが、自然になってきた。

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