世界は称賛に値する

日記を書きます

あなたのそれと相似形

▼▼相似形、という言い回しを使う習慣がまったくなかったので、不意に文章の中で見かけて、おお、これはよいなあ、って認識した。語り口としては、忌むべき精神のようなものに対して、あそこまで強固なものではないにせよあれと相似形のものがじぶんの中にもあったように思いますー、というような形での話だった。もしじぶんの語りだったら、同じもの、似たもの、同質のもの、同種のもの、類似のもの、が、わずかにある、どこかにはある、奥底にある、というような「言いかた」で、言葉にすることになっていたんじゃないかと思う。誰かの精神とじぶんの精神を見比べて、同じものがあるっぽいぞ、というふうに思った時に、相似形のもの、って言い回しが使えるの、なかなか便利っぽい、って思ったのだった。使いやすさだけで言っているところは、まあ、あるけれど……(適切さや有効さについては曖昧だ)。
▼▼数学に謎の苦手意識があった頃があって(今は好きである)、合同とか相似とかの言葉がすっと出てこないところがある。こういう「イメージ」として使いやすい概念が、学校で習うことには多いのだ、っていう印象が最近はある。最近思えるようになった。なぜ学校で勉強なんかしなきゃならないんだ問題、に、初期のうちにこういった構造イメージや機構イメージを増やしておかないと頭使うのがいろいろキツくなるっぽいから、って最近なら言いそうである。

今日も思い出

▼▼思い出話をするような時の、振り返りかた、切り口、雰囲気、情緒、言葉づかい、目線、といったものがかなり好きではあるので、今日のことを思い出話みたいに書く、っていうのもぜんぜんアリでしょうよ、と再認識した。


▼▼昔話や思い出話を取りまとめるように書いておいて、あとでそれを読み返すのは、ほんとうに楽しい。誰が読んでいるかも判らないまま独りでも文章を書く、個人的に書いた文章を読み返す、というような行動周辺において、最も楽しくて好きな事柄、って思っている気がする。というわけで、もっと書いたほうがよいなあ、って思った。自分史、個人史、回顧録。

略称と概念

▼▼略称があまり好きじゃないというか、略称単体で置いておくのがなんだか好きじゃないので、並置しようとする習慣があるのだけど、OS(オペレーティングシステム)と書くか、オペレーティングシステム(OS)と書くか、によって、人物ごとの「頭の中での概念や言葉の省略のしかた」みたいなものが違っていそうだなー、って思った。




▼▼認識をシンプルにする、把握をコンパクトにする、っていうことにおいて、略称的な削減と、抽象化や概念化による削減、というものを、同一視、混同、しているな、っていうのも思った。シンプルかつコンパクトにすることで頭の中であつかいやすくすることが可能だ、けど、人様に判りづらくなるのであんまり好きじゃない、みたいな話の中で、混ぜて考えていたところがあったと思う。

吹き出して見失う

▼▼緊張も不信も、怒りも、笑って吹き出した瞬間に、忘れ去ってしまう、という経験はかなり多い。糸が途切れるというか、途切れたあとに繋ぎ直せなくなる。忘れてしまうのあやういなあ、と思って、警戒もしているけれど、結局は警戒なんてしきれないだろうなあ、とも思っている。
▼▼この、ぷっと吹き出してしまった時の影響や効果の有益さや絶大さを意識しているかどうかで、世界観、人生観、人間観、がおおきく変わっていそうだなー、って思った。観点がおおきく変わるキモはここだけではないだろう、とも思うのだけど、このあたりの線引きが、そのキモの一つであるのは間違いあるまい、という印象がある。
▼▼あの消え去りかたは、とはいえ、好きだ。あ、落としちゃった、という雰囲気で、緊張や不信や怒りを見失ってしまう。詐欺にかかる時は絶対ここで喰らいそう、とか思いながらも好きである。

村の人生+港町拡張や大鎌戦役で遊んだ(黄色ボードゲーム会)

▼▼遊んだ日。あいかわらずボードゲームで遊んできた。あいかわらず、ってもう永遠に言い続けてもよさそうだなと思ってしまうくらい、余程のことがなければ、遊ぶと言えばボードゲーム、ボードゲームで遊びたい、というのが常態化していくんじゃないかと想像している。今日は『すずめ雀』→『村の人生+港町拡張』→『大鎌戦役』という順番で三つ遊んだ。
▼▼『すずめ雀』は非常にうまく簡略化させた麻雀だ。見た目までアレンジされた「麻雀亜種」が多い中、見た目も含めて全体的に麻雀に近しいところに落ち着かせているところが特色だろう。かなり麻雀っぽい。人から捨て牌をもらう手段は基本的に無し(ロンはあり)。役作りと待ちに特化させている雰囲気だ。楽しい。麻雀って独特の楽しさがあるなあ、ということが判る。『村の人生』は初めて『港町』を混ぜて遊ぶことができた。これも楽しかったー。港町入れたほうが明らかに楽しい。でも要素かなり増えちゃうから、ついていけないという人も出来ちゃうかも。今回の対戦相手的にはなかなかちょうどよかった雰囲気だった。そしてやっと『大鎌戦役』で遊ぶこともできた。『サイズ』という原題で呼ばれることも多くて、呼びかたに迷う。アートワーク、世界設定などが、美しい、戦略ゲームだ。駆け足プレイになってしまったので、また改めて遊びたいと思う。非常に盛り上がったのは『村の人生』で、やはり好きなゲームだと再認識できた。本日の最優秀作品と言える。でも、もっとちゃんと時間が取れていたら、『大鎌戦役』の盛り上がりがそれを上回っていたかもしれない。というのもあって、また遊びたい感が強めだ。




すずめ雀

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村の人生+港町

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大鎌戦役(サイズ)

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異世界転生に慣れてきた

▼▼異世界転生というような設定やストーリーにうまく馴染めないところがある、とは思うことがあったけど、いろいろと評価のよいものを楽しんで見ているうちに、まあまあ馴染めてきたとは思う。齟齬や軋轢、摩擦、といった雰囲気を中和してくれるロジックがいつの間にか生成されてきた。超能力とか必殺技とか巨大ロボットとか魔法とか魔力とか魔族が出てきてもぜんぜん自然さを崩さずにいられる。自然さというか「世界さ」みたいなものを安定させたままでいられる。というところに、転生、異世界転生、といった概念も混ぜることができてきた。
▼▼実はこの世には、超能力が、必殺技が、巨大ロボットが、魔法が魔力が魔族が、あるよいるよ、って言われても、あんまり驚かずにいられる気がする。というような「もしかしたら」という感覚の中に、異世界転生、というものも混入させることができてきた、とは言いたくなったのだけど、やっぱり、ほかのものを比べると、違和がおおきめではあるかなー。
▼▼死ぬ、っていうプロセスが混じってくるのが、やっぱり、抵抗感をおおきくしている要因ではあるのだろうか。死ぬの嫌がりすぎ、とは言えるのかも。▼▼異世界転移(死なないで異世界に行くやつ)には、ぜんぜん不自然さも違和感も覚えないので、やはり、死んで生まれ変わる、っていう現象を、異端視しているところはありそう。