世界は称賛に値する

日記を書きます

強意語盛りだくさんパターン

▼▼かなりとかとてもとか非常にとか極めてとかの、いわゆる強意語を使わなくても、日記は書ける。使った日記と使わないようにした日記を比べるなら、使わないほうが静かな日記が書けたりもするだろう(これって静かって言うんだろうか)(地味や淡々を使うことも可能かなあ)(情緒や情感が乗らない、乗せない、という雰囲気も出る)。強意語沢山日記と強意語皆無日記のどちらが好きか、でもって、どちらの書き手が好きか、というようなことを考えていた。ほどほどの減り張り、ほどほどの凸凹、があるのが、結局はよい、というところに落ち着きそうでもある。

フジコ・へミングの時間(映画)を観てきました

fuzjko-movie.com
▼▼映画『フジコ・へミングの時間』を観てきた。フジコ・ヘミングというピアニストにフォーカスを当てたドキュメンタリーだ。フジコ・ヘミングという人物が特別好きとか大ファンであるとかいうことでもないのだけれど、興味はあって、観に行った。音楽やピアノに対しても、特別好き、というような気持ちは、あまりない気がしている。けど、まあ波はあるかなあ……。特別好き!って音楽やピアノに対して思っている瞬間もある。あと音楽の「世界の輝かせかたは独特だ」っていうふうに特別視している瞬間もある。
▼▼フジコ・ヘミングという人物は、1999年に放映されたNHKのドキュメンタリー番組によって話題になって、一般的なところにも名が知られるようになったようだ。といった経緯は、ほとんど知らなかった。確かに言われてみるといつの間にか名を知っていた、とは思った。
▼▼人柄や生き様はほどほど好きかな、という印象で、台詞回しや家の装飾の趣味はかなり好きだな、という印象だった。ピアノの音色に対しては、綺麗なピアノだな、程度の認識しか、見ているあいだは持てていなかったのだけど、映画を見終わってから、なんとなく動画なんかで演奏している姿を見ていたら、ほんの少しだけ、フジコ・ヘミングという人物が弾いている、という雰囲気を聞き分けられている気がするぞ、って思えてきたりもした。音色の独自性が耳にこびりついてきてくれた気がした。
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場の防腐

【コミュニティの一生】

面白い人が面白いことをする

面白いから凡人が集まってくる

住み着いた凡人が居場所を守るために主張し始める

面白い人が見切りをつけて居なくなる

残った凡人が面白くないことをする

面白くないので皆居なくなる

▼▼といった場についての「まとめ」を見かけることはあって、確かに、なるほど、とも思っていたりする。
▼▼ということに加えて、今回、思った。


▼▼技術の進歩──システムやツールの改善によって、制作に手間暇がかかっていたことが、非常に手軽にできるようになり、以前までは「核心や肝要と言えるところから、細かく、丁寧に、造り上げられていた」はずのものが、表面や表層をなぞっていくだけのような気軽な行為だけで、造り上げられるようになってしまって、結果、なんとなく出来のよくないものや、ほどほどに品質のよくないものが、増えていく──粗悪の比率が高まっていってしまう、っていうような流れもまた、あるんじゃないかなー、ということも、合わせて思ったのだった。


▼▼とはいえ、裾野が拡がることによって、届く頂上の位置も高まる、といったモデルもあるので、調整が難しそうだな、と思う。
▼▼人類全体での試行回数はおそらく多いほうがよい。しかし、浅はかな物真似人物は多くないほうがよい。というの、両立させられるのかなー、というか、うまく両立させるための切り口はどこかにありそうなのかな、といった疑問を抱いた。


▼▼手軽に作品を作ることができるツール、というものを作りようがない媒体や表現、というものが、場としては非常に素敵になりうるのだ、って言えたりもするんだろうか、というようなことも余談として思った。
▼▼こつこつちまちまやっていくしかない、という面があると、場や場の関係者は、どうしたって、素敵になってしまう、というような効果があったら面白い、という印象だ。人類に対しての素敵効果までありうるならなおさら面白い。

漫画化されがちになる

▼▼ある技術が、発見され、開発されて、人類に浸透していった結果、ある程度、人類に浸透し普及したところで、人類全体の意識が、改革された、刷新された、というようなことがあるんじゃないかな、とは思っている。電気が夜という概念を塗り替えた、電話が距離という概念を塗り替えた、というような切り口だ。
▼▼っていう意味合いで、絵が、漫画が、幅広く拡がってきたことで、世界や人生、出来事の、受容しかたや受容の雰囲気が、塗り替えられつつある、というようなことがあるんじゃなかろうか、とも思った。人類の中の「漫画率」が上がっていくことで、意識が、変質していきそうな印象があるのだ。世界が漫画化されがちになるのって、世界が小説化されがちだったり、世界が言語化されがちだったり、するのとは、少し異なる「効果」をみせそうな気がしている。

いつもびくびくしている(いつも油断しない)

▼▼油断しないように、油断してしまった、というような言葉を書きがちなところは多くあったのだけど、煎じ詰めると、このあたり、じぶんに対する不信を「崇め」ているような雰囲気になるな、と思えてきたので、取り扱い難しいぞ、って思った。
▼▼怖がってびくびくする意識や精神を、無意識に崇高なものだと判断し、推奨している雰囲気、よくない可能性がある、とは思っておいてよさそう。
▼▼とはいえ、じぶんに対する不信ばっかり持っていて常にびくびくしている面、人格一つ、があるのは、よいのかも、とも思う。全面的じゃないならよい気もする。