世界は称賛に値する

日記を書きます

場の防腐

【コミュニティの一生】

面白い人が面白いことをする

面白いから凡人が集まってくる

住み着いた凡人が居場所を守るために主張し始める

面白い人が見切りをつけて居なくなる

残った凡人が面白くないことをする

面白くないので皆居なくなる

▼▼といった場についての「まとめ」を見かけることはあって、確かに、なるほど、とも思っていたりする。
▼▼ということに加えて、今回、思った。


▼▼技術の進歩──システムやツールの改善によって、制作に手間暇がかかっていたことが、非常に手軽にできるようになり、以前までは「核心や肝要と言えるところから、細かく、丁寧に、造り上げられていた」はずのものが、表面や表層をなぞっていくだけのような気軽な行為だけで、造り上げられるようになってしまって、結果、なんとなく出来のよくないものや、ほどほどに品質のよくないものが、増えていく──粗悪の比率が高まっていってしまう、っていうような流れもまた、あるんじゃないかなー、ということも、合わせて思ったのだった。


▼▼とはいえ、裾野が拡がることによって、届く頂上の位置も高まる、といったモデルもあるので、調整が難しそうだな、と思う。
▼▼人類全体での試行回数はおそらく多いほうがよい。しかし、浅はかな物真似人物は多くないほうがよい。というの、両立させられるのかなー、というか、うまく両立させるための切り口はどこかにありそうなのかな、といった疑問を抱いた。


▼▼手軽に作品を作ることができるツール、というものを作りようがない媒体や表現、というものが、場としては非常に素敵になりうるのだ、って言えたりもするんだろうか、というようなことも余談として思った。
▼▼こつこつちまちまやっていくしかない、という面があると、場や場の関係者は、どうしたって、素敵になってしまう、というような効果があったら面白い、という印象だ。人類に対しての素敵効果までありうるならなおさら面白い。

漫画化されがちになる

▼▼ある技術が、発見され、開発されて、人類に浸透していった結果、ある程度、人類に浸透し普及したところで、人類全体の意識が、改革された、刷新された、というようなことがあるんじゃないかな、とは思っている。電気が夜という概念を塗り替えた、電話が距離という概念を塗り替えた、というような切り口だ。
▼▼っていう意味合いで、絵が、漫画が、幅広く拡がってきたことで、世界や人生、出来事の、受容しかたや受容の雰囲気が、塗り替えられつつある、というようなことがあるんじゃなかろうか、とも思った。人類の中の「漫画率」が上がっていくことで、意識が、変質していきそうな印象があるのだ。世界が漫画化されがちになるのって、世界が小説化されがちだったり、世界が言語化されがちだったり、するのとは、少し異なる「効果」をみせそうな気がしている。

いつもびくびくしている(いつも油断しない)

▼▼油断しないように、油断してしまった、というような言葉を書きがちなところは多くあったのだけど、煎じ詰めると、このあたり、じぶんに対する不信を「崇め」ているような雰囲気になるな、と思えてきたので、取り扱い難しいぞ、って思った。
▼▼怖がってびくびくする意識や精神を、無意識に崇高なものだと判断し、推奨している雰囲気、よくない可能性がある、とは思っておいてよさそう。
▼▼とはいえ、じぶんに対する不信ばっかり持っていて常にびくびくしている面、人格一つ、があるのは、よいのかも、とも思う。全面的じゃないならよい気もする。

自然分類と人工分類

▼▼分類するのは好きだ。分類していて、自然物を分類しようとするのと、人工物を分類しようとするのは、若干、違うのではないか、って思った。ぜんぜん別物ではないか、ということも思った。なんというか、人間には、見逃しや勘違いがありうる。自然には、まあ、なさそうだ。見逃しや勘違いがありうるであろう人の製造物を整理しようとすることには無駄や無意味がかなりありうるだろ、って思った。
▼▼実際に存在する生き物たちを分類しようとするのと、物語に出てくる生き物たちを分類しようとするのは、同じ行為と捉えてよいのか?って思ったのだった。
▼▼世界そのものを頭脳で相手取る、のと、人の頭脳を頭脳で相手出る、のは、挙動が違うじゃん、種類が違うじゃん、って言いたくなった。

打ち消されているのでじっと見る

▼▼非常という言葉を見つめた時に、非という言葉にくっついている「常」という言葉が見せようとしているものを、まず想像してみてから、否定する側に頭を動かしてみて、常にあらず──常ではない、といった情景を思い浮かべてみたりする。不調という言葉ならば「調」に着目するし、未熟ならば「熟」を意識するし、無視ならば「視」に注意する。
▼▼といった「打ち消しの接頭語が付いている単語を見る時には、打ち消されている側の言葉を、じっと見つめることになる」という挙動を好んでいるなー、って気づいた。
▼▼非常、異常、超常、というふうに、同じ言葉の上に異なる接頭語がくっついてくる状況、を見つめて、非/異/超、といった言葉の違いを見つめるのも、好きだ。
▼▼熟語を構成している文字ひとつひとつを見つめて、意味と意味の噛み合わせかたを見つめることになる、っていう行動がとにかく好きなのだった。意味見るの好きだ。