世界は称賛に値する

日記を書きます

怒りも哀しみも掛け算も引き算も

▼▼特定の感情も、特定の思考も、特定の想いや願いも、つまり特定の「頭の中の状態」を、褒めもせず、貶しもせず、あるがまま、よしとするA(よしとすることもしない)、といった、やりかたや思想や生き様は、わりと、アリ、な気はする(とはいえ、あるがまま型の切り口は、如何なる話であれ、おおむねよいもの──使いどころによってよくなるのでうまく使いましょう、って雰囲気だけど)

冷淡さや厳格さに対する想像力の飽和や欠如の調整

▼▼冷淡さや厳格さも大切なことがあるのに、冷淡さや厳格さの話を聞いた時に、じぶんがそれで傷つくかもしれない、ということが想像できてしまったら、強く推奨したり賛同したりできないことがある、ので、ここあたりの想像力はうまく調整せねば、って思った。

ファイナルファンタジーがリアルに立ち上がってくる眼差し

▼▼こどもの頃楽しんでいたゲームや小説を改めて見返してみたような時に、現時点で現世に向けているものとは異なる感触の眼差しがあったぞ、ってふと思い出せることが時々あって、改めて、新鮮味を覚えたりしていることもある。ということを思い出すのと同時に、現時点のじぶんがゲームや小説を堪能している時に使っている眼差しとは変わった気がする、と思っていることがあるし、かつての眼差しは何に根差したものだったのだろうか、と考えてみたりしていることもある。現状よりもっと真面目で懸命で狭かったというか、もっと「眼前に拡がる異世界に合致させようとした眼差し」だった(調整した目で見ようとしていた)気がするのだ。この世に生まれてきたため今後を生きるため、こどもの頃は、この世のことを学びながら生きかたややりかたを模索していた、っていうのと同じように、ファイナルファンタジーのゲーム世界やフォーチュンクエストの小説世界に合わせた「やりかた」「見かた」を探そうとして、眼差しを造り上げていた気がする。思った契機は、ファイナルファンタジーのウインドウの文字を読んでいくにあたって、現状のような「この世界での、統一的で画一的な、文字を読む」っていうやりかたはしてなかったんじゃないかなあ、なんてふうに思えたところにあった。
▼▼なぜかつてはそうだったのか? という問いに対しては、こどもの頃でありまだまだ世界が狭かったから、とか、時代的にまだ世界が狭かったから、とか、ゲームというものが新たな文化だったため新たな切り口が必要だったから、とか、こどもの頃の多感で優秀な想像力がそれを可能にしてくれた、とか、等々なことの混合物であった気もしている。
▼▼異なる世界に適合してみせるためのの眼差しの創造、っていうことにおいては、音楽や画像の影響も、あるかも……、とは思った。あの頃聞いていたサウンドやグラフィックの影響により、というか、サウンドやグラフィックに合わせて、眼差しを造っていた、というところがあるような気がしたのだ。これもまた、こどもの頃だったから──世界に対して無知だったから、可能だったのかもしれない、とは思うけれど……。というのは、とはいえゲーム目線であって、小説目線なんかになると、また、変わってくるけれど……。

伊豆ぐらんぱる公園のイルミネーション、と、iZoo

▼▼若干遠出して静岡県の伊豆高原を散策してきた。高原とか平原といった言葉を、学問的な地理の中では聞くことがあったし、物語的な世界地図の中で触れることも多々あったのだけど、実際それがなんなのか、ということに関して丁寧に意識が出来るようになったのは、けっこうおとなになってからであったかと思う。最近になってからだと思う。なぜそういう呼び名がついたのか、そういう呼び名がついている場合どういう環境なのか、ということに、目が向けられるようになった。論理が繋がるようになった。
▼▼伊豆のぐらんぱる公園で見ることのできるイルミネーションが、スゴイ、巨額が投じられていて数年間続いている、一見の価値がある、と聞いたので、観てきた。爬虫類専門動物園iZooにも立ち寄ってきた。初めて蛇を触ったし、初めて鰐を食べた。比較的ちいさな蛇を持ってみた結果、ああこれ可愛いわー、とはなった。飼いたくなる気持ちも判らなくはない、と思った。のだけど、蛇の見た目によるところがおおきかったので、蛇も可愛いものだ、ではなくて、可愛い蛇なら飼ってみたい、と言える状況ではあった。鰐肉のカレーは非常に美味しかったが、あれはなんというか、素直に美味しいカレーであったのではないか、という気もしている。

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伊豆

文章型の題名は好きである

▼▼文章型の題名が増えている、といった話題を時々は見かける。まあ実際の統計や分布は不明だ。確かに以前より見かける機会は増えた気はしている。ほんとうに増えているとするならば、なぜ以前は「題名は短く付けましょう」という意識や判断が多かったんだろうか、という問いは出てきたりした。端的な言葉でほのかに匂わせる、あるいは、端的な言葉にぎゅっと圧縮してみせることで本質のようなものを際立たせる、いや、本質であるかのように目立たせる? ということの素敵さが志向されていたのかなー? なんてふうに考えてみたりもした。というふうに考えるならば、文章型の題名が採用されてゆくことによって前述したような効果が達成されにくくなっている、と言えたりもするのかな? ということも合わせて思った。
▼▼肯定的、積極的、楽天的、に捉えることも可能だろう。連なった言葉からであっても匂いを嗅ぎ取ることができるようになった、と言うことだってできる。無論、逆に、否定的、消極的、悲観的に捉えることも可能で、連なった言葉の並びでないと匂いが嗅ぎ取れないようになった、というふうにも考えられる。やわらかく圧縮してみせる楽しさでも楽しめるようになった、とか、強く圧縮してしまうと解凍ができなくなってしまったからやわらかめの圧縮が流行り始めた、という解釈も可能だ。


▼▼現代人にとって時間や金銭がより貴重なものになってしまったため浪費に繋がる「はずれ」を怖れて、もしくは、現代人は頭を使わなくなったので「より判りやすいもの」を求めて、「内容が比較的わかりやすそうなもの」を求めがちになった、的な切り口を見かけることもあったりするのだけれど、まあ、若干疑いつつ聞いたりはしている。
▼▼長年の蓄積により端的な題名は飽和しつつあり、かぶるようになってきたので、かぶらないよう言葉を足していくようになった結果、なんか長くなってしまった、というような解釈についても時々は考えてみたりするのだけれど、いやこれもあやしいぞ……、って思ったりはしている。


▼▼いずれにせよ、文章型の題名はけっこう好きだったりする、ので、現時点の状況を素敵な雰囲気で彩れる解釈を探しているところはあるかと思う。