世界は称賛に値する

日記を書きます

論理の狂いを目くらます修辞

▼▼駄目な議論、狂った論証、正しそうに思えるのだけれど丁寧に見つめてみると実際は正しくない説明、というようなものが、ある。話し合いの中で実行してしまわないようなんとなく気にしていたりもする。気をつけていたりはする。▼▼というような「正しそうに思えるのだけれど丁寧に見つめてみると実際は正しくない」指摘、を、人様から受けた時に、瞬間的には妥当じゃなさや適切じゃなさに気づけないことがあって、むしろこういう「気づけなさ」のほうが怖いのではないか、って思った。思い直した。正しそうだと最初は思えてしまうことの理由、を、まとめて掌握しておけるならしておきたいぞ、なんて思ったのであった。▼▼議論や論証における論理の破綻や矛盾のことだけでなく──言い合いと言い負かしにおける論理面の話だけでなく、話のおかしさを包み隠しうるし誤魔化しうるような効果を見せる修辞の話、が、気になったと言える。
▼▼強引で強烈なツッコミを受けてなんとなく言い負かされた気分になってしまったのだけど──撤回や謝罪すらしてしまったのだけど、改めて考え直してみたら、あの時のツッコミ、若干おかしくない? 破綻してない? 矛盾してない? というか実際のところほぼ関係なくない? なんて思えるような状況が時々はあったりする、ため、このあたりにあるであろう「論理面の違和を認識しづらくしているもの、技術や性質」のことを、まとめてみたくなったのだった。▼▼誤魔化されていたな!とあとで気づけた時に、では何に誤魔化されていたのか、と思い直せないものだろうか、って考えていた。

感で慌てる

▼▼違和感/忌避感/焦燥感/圧迫感/劣等感/徒労感。納得感/達成感/一体感/安心感/清涼感/恍惚感。正義感/使命感。物事に際して覚える「感」に対し、このあたりの気持ちや精神や心理をほんとうにじぶんは区別できているんだろうか?と自問してみるのは、好きである。突き詰めることによって、見分けがつきにくくなってきて、慌て始めるのが、好きだ、って言えると思う。感じることができたものの種類、と、想起できた呼びかたの種類、が、適合しているか、ということがあやしく思えてきたりする。脊髄反射的に想起できた呼びかたに飛びついているだけではないか?っていう疑問が姿を見せ始めたりはする。というような結びつきと結びつけ、見間違いと決めつける権利、を、活用している、とも言えそうかな。

文章同士の中で生まれるおかしさは「ほんとうの考えや気持ち」とのズレによって出来る、ということばかりでもない

▼▼昨日の日記に関する注釈的な思考になってしまうけれど、文章というものをいくつも書き連ねていった時に、違和や矛盾が出てくるのは、まあまあ自然だろう。よくある。脳内で論理的整合性を常時精査しながら言葉選び言葉運びをしてゆくのって、(特にじぶんの処理能力では)不可能じゃないか、って思えるくらいに困難なのだ。▼▼というところに対し、ほんとうにじぶんが思っていること、ほんとうにじぶんが感じていること、とズレているから、おかしな言葉選び言葉運びが起こるんだ、って思うの(おもいすぎるの/決めつけてしまうの)、あやうくない?

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気持ちと言葉のズレは論理的矛盾としては発露しなそう

▼▼乱雑に言語化してしまうことでおのれの精神や認識や気分などの把握にミスることがある。勘違いしてしまうことがある。といった理解はあって、言葉選びや言葉運び、に際し、精緻、厳密、妥当、適切、といったことを気にしていることもある。でもって、論理や論理性というものを学び、うまく適用し活用することで、このあたりの言葉選びや言葉運びがうまくなりそう、と思っているところもあったりする。論理が見通せるようになると、言葉選び言葉運びのミスは減る。いくらかは予防できるだろう、とは思えている。
▼▼とはいえ、精神や認識や気分を言語化しようとした時に起こりうる「ミス」は、論理や論理性の学習や体得によって防げるものばかりでもない、とも思うところはある。精神や認識や気分を選ぶ時の「類語の中で行なわれる選択ミス」は「論理的整合性の破綻」として発露してくれるものばかりでもないよな、って思った。


▼▼と書いてきて思った。ある精神や認識や気分を背景にして、言葉を、文章を、複数個書いていった時に、おのおのの比較の中で立ち顕れてくる矛盾、というものは、ありそうなのでは、って思った。思い直した。
▼▼ある気持ちを言葉にしようとした時に、類義語圏での単語選択に、たとえ、ミスしてしまっていたとしても、単独の文章だけでは、おかしさに気づけないことがあるかもしれない。素直に通る文章として観測できてしまうことがあるかもしれない。勘違いや見当違いや筋違いに気づくことができず、じぶんの胸や頭の裡での検査すら、通してしまうことがあるかもしれない。けれど、二つ三つと文章が積み重なってゆくうちに、やはり、違和が出てくる──矛盾が出てくる──整合しなくなってくる、ということは、あるんじゃないかなー、って思ったのだった。なのでここで「論理」を活かせる気がする、とは思ったのだった。


→翌日の注釈的な思考
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現在形だけ過去形だけ文章

▼▼初めて小説を書いた時に文章の時制の選択で非常に沢山悩んだのを憶えている。する/している/した/していた/なのだ/なのである/なのだった/だった/したのだった/していたのだった。現状であっても不明瞭だ。
▼▼英語圏の小説では、基本的に、現在形と過去形を混ぜこぜに使うようなことはないようである。▼▼日本語圏の小説だと、現在形と過去形を、おのおのが持つ響きの違いを活かしてリズムを取るかのように、使い分けている印象がある。リズムを取ろうとおすすめしている指南を見かけたりもする。
▼▼ぜんぶ現在形、ぜんぶ過去形、ぜんぶ現在進行形/過去進行形、といった、極端な選別による文章を、実験的に書いてみて、響きを、感触を、意味を、見比べてみたい、って考えてみることも多い。複数回思ってきている。▼▼日記の中で行なわれる選択の基準や権限も謎だ。
▼▼検索すると、ここにまつわる問いの論文が沢山あって、非常に面白かった。

意味って言葉が栄える環境作り(文章作り)

▼▼意味は、最初の頃、あるとかないとかを語ってみたくなりがちだったし、なんとなく慣れ親しんできたら、主観とか解釈とかの言葉を絡めながら「じぶんが思う」「じぶんで決める」「絶対的な意味なんてものはなく、皆が皆の意味を持っている」あたりのことを丁寧に語ってみせたくなりがち、であったかと思う。
▼▼最近、意味、に対しては、うまく使えたもの勝ち、というか、矛盾なく破綻なく不正なく最も美しく使えたもの勝ち、というか、整理より実践の中で「うまいことやろう」と思っているところがあるな、って気がしたのだった。▼▼意味っていう言葉を解体したり位置づけたりしてゆくより、意味という言葉を置いた時に栄える文章を考えるほうに傾倒しがち、なのだった。