世界は称賛に値する

日記を書きます

ド忘れリストは気持ち悪いか

▼▼明確にド忘れしてしまって結局まるで思い出せなかった脳内の挙動を、ぜんぶ並べてリストのようにして眺めてみたいぞ、といった夢を思い描いてみることはあって、滅茶苦茶気持ちよさそうだ、っていうほうに想像を向けていたりもするのだけど、実際は滅茶苦茶気持ち悪いかも、とも思った。

因数分解直観とまでは言わないものの

▼▼数字を見た瞬間に因数分解する習性、というようなものを見かけることがあって、馴染まない物に思えたりもするのだけれど、数字を見た瞬間に偶数奇数を脳内でなんとなく見分けている感覚、というものはあるような気がしたので、延長線上で想像できそう、と思った。

うまく一言で言えたら、それは新しい概念か

▼▼普段からなんとなく意識していたものではあったはずなのだけど──視界の中には以前からずっとあったはずなのだけど、うまく「一言で」言える言い回しが見つかっていなくて、でも、このたび、誰かが上手いこと名付けてくれたから、綺麗に、華麗に、背景から浮かび上がってきた──判るようになった──見通せるようになった──言い表せるようになった、というような状態に対して、新たな言葉、新たな概念、といった言いかたを向けるように(いつの間にか)なっていたのだけど、新しい言葉、のほうはともかく、新しい概念、っていうのは、こういうことでよいのかな、って、少し思った。
▼▼(サイエンスフィクションやファンタジーなんかで、世界や生物の枠組みや骨組みが変わることにより、現状の人類では使いこなせない概念が発生したり、既存の概念が変質したり、する、ことがあったりするけれど、こういった情景のほうが「新しい」ものなんじゃないかな、なんて思ったのだった)(とはいえ、結局、前述したやつと、サイエンスフィクションやファンタジー的なやつには、類似点や共通点もある気はする)。

言葉にすることと具体的になること(混乱中)

▼▼具体的に考える/論理的に考える/物理的に考える/客観的に見る、のあいだで、突然、試行錯誤を重ね始めてしまい、頭の中がざわざわと騒ぎ始める、っていうのを、非常に頻繁にやっている。区別がつかなくなる瞬間が多いのだ。
▼▼文字にすることによって、あるいは、数字にすることによって、思考が「具体性を持つ」ものになってくれたり、「論理性を持つ」ものになってくれたりする、っぽいところが、だいぶ掴みづらい印象だ。▼▼頭の中で行なうシミュレートではなく、現実的、実際的、にすることで──可視化させることで、具体的、客観的、物理的、あたりの性質を持つものとして顕現刺せられるっぽいところも、不明、って思ったりしている。
▼▼というふうに、混乱中の情景や背景を描いておくことで、整理できるんじゃないかなあ、と思ったのだけど、なかなかあやしいところであった。


▼▼以下は混乱中。


▼▼「具体的に考えましょう」というふうに思った時に、行動としては「文字として書き出してみよう」と判断しがちなのだけど、「文字として書き出してみる」という行為がつまり「具体的に考える」ということなのではなく、文字として書き出すことによって「具体的に考える」という状態が勝手に顕現させられ実現させられてしまうというか、実際に書かれた文字というものに脳内の区域が縛られることで「具体的に考える」ということしかできなくなるというか、勝手に状態や比率が「具体側」に寄せられてしまう、ということがあるのであって、頭の中で文字を思い浮かべて考える、のと、実際に文字を書いてゆく、のでは、如何なるところが違うのか、と問われたら、実際に書かれてしまった文字は、ほとんど変容することなくたいていは文字であり続ける、というところがそこにある違いなのであり、この性質の違いが、具体性を担保し、論理的な縛りを作り、客観的にしか見えないものにしてくれる、んではないかなー、なんてふうに思ったのであった。
▼▼無論、単語ごとにも具体度と抽象度の違いがあって、このグラデーションは「文字にするかどうか、で動かせるグラデーション」とは別で、単語選びの中でも「具体的かどうか」にまつわる色合いの違いは出せてしまうわけだけど、でもまあ、文字や数字にしている時点で、いくらか、具体側に寄せることができている、のだ──、といった理解でよい、のかなあ。?。

道具的簡素

▼▼形状、構造、挙動に対する、気づきの話は、地味で、簡素で、書き足したくなる。理解した事柄を使って別のところのものを解明したくなってしまう。解明できたらよいなと期待してしまう。こういう思索の延長や付加により、ねじ曲がるものもありそう、っていうのを思った。使いやすい道具や武器として端的に記憶させておくことも大切そうだ。