▼▼運ゲーを嫌う状況や傾向は素直に想像できるのだけど、明らかなる運ゲーであったとしても、勝った時、勝っているあいだ、だけは、面白かったりする(気持ちよかったり続けてもよかったりする)、からなあ……、というような印象もあって、つまり、勝ち続けられるのであれば運ゲーというものも肯定しうるのかな?(ぜんぜん肯定できないという話でもないのだけれど) というようなことも、思ったりはする、のであった。
▼▼勝ち続けられる運ゲー、というのはしかし、語義矛盾になるのかなあ……? 運否天賦が絡んでいるように見えて、結果は、同じ、というならば、結局「運」ではない? とはいえ、運、と錯覚させることは可能っぽい気もするけれど……。勝敗の基準を複数用意して勝者と敗者を誤魔化す、という切り口もありうるかな……。というか、敗者がいないと勝者って存在させられないんだっけ……。
ビビってから、当然さに至って、枠組み整理しようとする
▼▼可愛いは正義、という言葉が指し示している現象の、怖さ、を最初に思ってから、接している時の気持ちよさや不快さに寄り添うようにして判断が為されるのなんて当然、とツッコミ的に考えていることはかなり多くて、じぶんが「世の中の構造を理解」しようとした時、って、おおむね、こういう順番で頭を使っているな、と思ったりもした。
ハングリーを食欲と直結させる癖
▼▼欲望全体に対しての抑制、からの、飢餓や渇望、が、なかなか肝心っぽいぞ! というようなことを思うようにはなってきていて、このあたりの重要さや必須さを脳内に響き渡らせるために、標語として、ハングリー! という言葉を見せびらかしてみることも多かったりするのだけど、ハングリーという言葉を、空腹、食欲、と結びつけすぎているところが実はあって、結果、ハングリーという標語を掲げてみたとしても、空腹を目指したり食欲を我慢したりするところにしか繋がらなかったりすることも多かったり、する。
▼▼ので、欲望全体を「想像」させられるように調整しないと、とか最近は考えがちだ。
色からの思い出、思い出からの感情
▼▼精神状態が、目にしている色によって、変わる──影響を受ける、といった説話に対して、疑念を覚えていた時期があったのだけど、気持ちのよい記憶が想起されている時に嬉しさのようなものが湧いてきたりすることは普通にあるし、二度と手の届かぬ懐かしい記憶が想起されているような時にほんのり哀しくなってきたりすることもあるし、でもって、現在見えているものからなんらかの記憶が想起されてくることだってある、わけだから、このあたりのプロセスを踏まえるなら、視野内に存在する色彩が気持ちを変えてくること、というのも、まあありそうだよな、と、最近は思えるようになってきた。