世界は称賛に値する

日記を書きます

嫌いと思う理由、暫定三つ

▼▼見ていると決心や思想や価値判断が脅かされる(否定されている気持ちになる)、所有物や近親者や自分の身体面や社会面に害がある、嫉妬、の三つが「嫌う」──「消えて欲しい──去って欲しい──なるたけ近寄らないで欲しい、と望む」理由かなー、と整理した(嫌い/嫌う、ということを考えるにあたっての整理で、三つは思いつけた)。

言葉選びによるランティングフォーカシング

▼▼同じような言説であっても、単語や言い回しをあえて換えみせることにより、違う空気になる。ライティングが、フォーカシングが、変化して、異なる感覚を得られるようになる。難解な、異質な、見慣れない言葉を持ってくるのが好きな理由に、これがある。変なふうに言う、というエンジンを駆使することによって、違う「画」を作ろうとする趣味があるのだ。人様の話を聞く/人に話す、時の、面白さ、についても、このあたりに重心や主軸を置きたがっているところがあるかな……。

短期間に素敵を喰らわせられすぎると昂奮を抑制できない

▼▼え!あ!そうか!そういうふうに考えればよいのか!なるほど!というような驚きと閃きと新鮮味の混じり合った味わいが滅茶苦茶好きで、ツイッターなんかで人様の言葉に感銘を受けたり薫陶を受けたり啓蒙させられたりするたびに、ツイッターがあってくれてよかったぜー! とか思っていたりもするのだけど──一日のあいだに二個も三個も素敵な「なるほど!」に出くわしてしまった時に、強烈な「ツイッターってすごく素敵!」という褒め称えが発生するのを止められないでいるところがあるのだけど、輝かしい出会いが一日のうちに何個かばしばし続いたっていうだけで強く心を動かして褒め称えてしまうの、浅はかじゃない?甘くない?事実誤認じゃない?とも思った。
▼▼とはいえ、長期的あるいは中期的な「素敵の進捗」だけを「褒められる理由」とするのも、多少おかしな(めんどうな)話ではあるか……。短期および眼前の素敵の密度や濃度だけで褒めすぎるのも当然よくないのだろうけど、褒めない!と決めるのも微妙だ。あやうさを知っておこう、という注意喚起の話になるのかなー。▼▼危険性把握が、リスク管理が、つまりは浅はかさの対抗馬なのだな、というのは、最近まあまあ思っている。思うようになってきている。
▼▼無論、ツイッターという媒体に対してだけでなく、ほかの媒体に対して思うし、例えばブログや日記にも思う。素敵な日記を数日のあいだに何個か読めただけで──素敵と感激をまとまって喰らっただけで「ブログや日記ってあったほうがよいものだよね!!!みんな書いて!!!」とか思いすぎ言いすぎ。
▼▼ぽこぽこぽこと間断なく素敵さに出会わせ続けられると、受け止めきれなくてなんだかあっさりと感激と感動の波に呑まれる。が、運やタイミングの問題で、あと、媒体の特性と関係あるのか?という問題が絡んでいるところでもあって、このあたりを気にせず、浅はかに媒体を賞賛してしまうことの、駄目さや愚昧さや微妙さ、を思ったのだった。けっこうこういう気持ちの動きやってるよなー、と反省した話でもある(ここが起点)。

ブループリント、タギロン、センチュリー:スパイスロード、ドラゴンイヤー17、ロレンツォ・イル・マニーフィコ、で遊んだ(白色ボードゲーム会)

▼▼深夜にボードゲームで遊んだ。四人が参加(じぶん含む)。今回は相手が強敵揃いでぜんぜん勝てなかった。正直あんまり勝敗には拘らないほうだ、なんてふうにこれまでは思っていたところがあったのだけど、ほんとうに敗北ばかりが続くと想定よりも悔しさが濃くなる雰囲気ががあったりもして、なんだかんだでこれまではまあまあの比率で勝てていたから気にならなかっただけなんだな……、と思えたりもした。理解できた。いやもうほんとうに強かった。強い!というのはこういうことかー、と再認識したと思う。悔しさがあるなあ。再戦気分である。

白色ボードゲーム会

ブループリント

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▼▼サイコロを使って建築する。設計図通りに作る得点、資材(サイコロの色)による得点、極端な形状や組み合わせによる得点、というふうに得点源がいくつかある中、一人ひとつずつサイコロを取って、積み重ねていく。設計図完全無視!という雰囲気になりがちなところはわりと好き。得点システムが変、というところもけっこう好きだ。






タギロン

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▼▼質問カードで情報を得ながら、相手が持っているタイルを当てる。が、四人戦だと「誰も持っていない四枚」を当てるゲームになる。質問カードが相変わらず秀逸。出番が非常に多いし好きだ。しかしぜんぜん勝ててないな。見落としがたいていある。この「推理の隙」は普通に弱点なので、なんとかしたいところ。






センチュリー:スパイスロード

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▼▼スパイス商人となって、トレードしながらスパイスを集め、スパイスを払って勝利点カードを獲得してゆく。トレード(もしくはアップグレード)できるカードが場に並ぶので、獲得して手札にしていき、トレードの効率とコンボを狙う感覚になる。といった流れが非常に心地好い。最近のゲームでは抜群にお気に入りだ。判りやすいし。






ドラゴンイヤー17(初プレイ)

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▼▼中国では辰年は不幸な年だと言われてるようで、不幸な十二ヶ月間をなんとか乗り切るゲームだ。ほぼほぼ不幸なイベントが十二個並び、事前把握できるので、対処できる人材を雇いながら、乗り切る。ただまあぜんぜん「間に合わない」ので、どこで諦め、どこで抗うか、調整していく必要がある。強い人材は手番を遅くするあたり、素敵だった(印刷エラーのタイル混ぜて遊んでしまったので、改めてちゃんと遊ばねばだ)。






ロレンツォ・イル・マニーフィコ(初プレイ)

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▼▼絶賛ばかり聞いていた重めのゲーム。絶賛できる。遊んだあとだと「重ゲー」というほどかなあ、と思える遊びやすさがあった。ロレンツォ・デ・メディチに仕える貴族となり、じぶんの街を発展させていく。取ったカードを並べて、サイコロの目によっては「ぜんぶ一気に発動」とかできるところが気持ちよい。快楽感が強めな雰囲気だったけど、なんだかんだで苦しかった(リーダーカード入れないとけっこう苦しくなるらしい……)。

ブループリント 日本語版

ブループリント 日本語版

タギロン(TAGIRON)

タギロン(TAGIRON)

センチュリー:スパイスロード 完全日本語版

センチュリー:スパイスロード 完全日本語版

ドラゴンイヤー17

ドラゴンイヤー17

ロレンツォ・イル・マニーフィコ

ロレンツォ・イル・マニーフィコ

根津のボードゲームカフェ「コロコロ堂」に行ってきた

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http://korokorodou.com/


▼▼東京都文京区の根津にあるボードゲームカフェ「コロコロ堂」に行ってきた。今回が初めての利用である。最近はボードゲームカフェを開拓志向だ。いろいろと行ってみて雰囲気の違いを楽しんでいる。コロコロ堂さんは毎週木曜日の夜に「夜コロ」というイベントも開催されていて、毎週、テーマごとに遊べるボードゲームを選定されてもいる(テーマに合致するゲームの持ち込みがされたりもしているようだ)。
▼▼ボードゲームカフェを観測するにあたって、フォローの繊細さおよび手厚さ、等を気にしてしまっているところは、かなりおおきいんじゃないかと思う。安心して使えるかどうか、という軸を明確に意識してしまっている、とは言えそうである。言及や解説もしたがりがちだ。かつて、初めてボードゲームカフェを使う時に、初心者は放置、的な雰囲気があったらどうしよう、といった不安に塗れていたことを憶えているからだ。けっこうビビっていた。ので、このあたりに関する情報は欲しいものである、とは、今でも思いがちなのだった。見ておきたくなるし、言っておきたくなる。事前に調べて把握できる状況があったらよいなと思ってしまっている。
▼▼とはいえ、最近はこのあたりに関する意識、というか、不安や恐怖が、思いのほか薄くなってきてしまっている感覚も、あったりはしている。だいぶ肩の力が抜けてきているんじゃないかと思えたりもする。今回遊ばせてもらった「コロコロ堂」さんにしても、前回遊ばせてもらった「アソビCafe」さんにしても、丁寧なフォローのもとで非常に楽しく遊ぶことができる場であり、まるで問題がなかった、ので、あんまりビビらなくてもよいのでは……、という経験則が構築されつつあるのだろう。大変穏やかかつ和やかな雰囲気の中で遊ぶことができた、遊びやすかった、といった経験が積み重なって、安心だ、という気分が基本になってきてしまっている。ここ最近の開拓の中で、ボードゲームカフェの経営や運営に関しては、ほんとうに遊びやすい空間作りを目指されているのだ、といった気持ちが固まりつつある、のであった。
▼▼ボードゲームカフェが安心して使えるのなんて当然じゃん──わざわざいちいち言うまでもないじゃん、といった認識が固着し、意識も言及もしなくなる──する動機を見失う、というのは、嫌だなー、と思うので(最初は、得体も知れないし、ビビるし、実際ビビってたじゃん、という視点を忘れずにいたい、と思うので)、安心感に浸りすぎないようにしたいな、とは思うけれど……。
▼▼(ネット上の評判なんて、基本的には「褒める流れ」であろうから、いくらかの嵩増しや水増しはあるんでしょうよ、結局言うほどじゃない(皆「使いやすい」とか言ってるけど、表面上的なことがあるんじゃないのー、とか思ってて、すいません……、とはだいぶ思った)(と言っても、まあやはり、場所にも人にもよるんだろうし、運やタイミングの問題もあるだろうし、ぜんぶがぜんぶ、いつだって完璧、ということでもないのだろうけれども……)(まあ、実際のところ、現在の経験の中でわりとはっきり言えるのは、けっこうな不安と緊張を抱えながら暖簾をくぐった「コロコロ堂」や「アソビcafe」だったけれど、なんだかんだ、だいぶ安心しながら遊べたよ、ということだったりはする。しますね。このあたりのことを、行く前の段階では、なんとなく『疑いつつ』行ってみたんだけど、思ったよりもだいじょうぶだったー、平和だったー、楽しかったよー、というふうに書いている経験談って、あんまり見たことがなかった気がしていたので、そういった風味を混ぜつつ、書き残しておきたくなった、のであった。書いた)
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切り取り性と芸術

▼▼芸術と、世界に対する「切り取りかた」には、関わりがある、と印象している。神様が全知全能で「切り取らずにいられる」者だとするならば、神様に芸術はないのかも、と思った。
▼▼人間の持つ「切り取り性」を──人間の知性の限界と、限界があるからこその「理解がおよぶところまで『切り取ってみせる』工夫」を、芸術を支えるものの一つと見做してみせることで、芸術を人間的なものとして見做す、という形状になるかなあ……。▼▼切り取り性、切り取り感、切り取る技術、に、まるで触れることなく、芸術論なんかを語ることって、できなそうな気もするし……。