世界は称賛に値する

日記を書きます

正しくなさ、醜さ、罪深さ、以外の、目の逸らさせかた

▼▼おのれの中に(じぶんでも)目を逸らしている部分があって、しかし、誠実に見つめたほうが何かとよいよー、というような切り口に関して、常識や道徳、世間体や見栄、美意識、といったものが邪魔をして無意識に目を逸らさせている、ということがあるようだ、なんてふうに思っているところがあるのだけど──つまり、じぶんの中に「正しくない」「醜い」「罪悪的な」ところがある時に、無意識に目を逸らす、ということがあると(経験的にも)思っているところがあるのだけど、じぶんの心を覆い隠すことがあるもの、って、こういう「価値判断的なもの」ばかりじゃない気もする、と、思ったりすることもあって、むしろそちらのほうが強敵なのでは、と、最近は思うことが多かったりもするのだった(人間の認識は因果関係という形式からは逃れにくいとかそのあたり)。

赤裸々おじゃん

▼▼言わぬが花、というか、黙々とやっていないと台無しである──赤裸々に話してしまうとおじゃんである、というような状況だろう、って(じぶんの行動に)思っていることがあるのだけど、こういう、自意識を隠してみせること、ないし、無自覚であること、言語化しないことや発言しないこと、が、現象や行動を「よい」側に傾けてくれる、なんてふうに思っている時の、前提や状況判断って、なんなんだろうな、と、改めて思った。
▼▼意志を、意図を、話してしまうことが、何を変えると思っているんだろう。
▼▼やっぱり、聞く側のことを気にしてる、んだろうなー、とは思った。
▼▼わざわざ言うことで、聞く側に、何かを、押しつけることになる、聞く側に、負担させることになるし、過度に期待することになる。あるいは、期待させることになる。というような諸々が、問題を、変質させる──駄目なほうに傾けることがある、とは思ってよい気がした。

言葉検分「情けない」

▼▼人目を気にしすぎているのは駄目だ、とは思いがちである。人の物差しによって行動が決められ続けていると、精神が澱む、認識が腐る、気持ちが削られてゆく、からだ、というような理由も、合わせて思いがちである。
▼▼じぶんの決意や決断であるということが──つまりは「決めた」という感覚が──要するに「納得」が、大切なのだ、とは思っていて、この理由をもとにすることで、人目を気にしすぎている、ということに、文句を言いがち(言えると思いがち)なのだ。


▼▼でも、人目を気にしてしまう、というような現象があった時、実際に「えー……」とか思ってしまうのって、なんというか、情けなさ、的なものに向かってであることが非常に多くて(厳密に見つめると、いつもここばかり気にしている気すらする)、なんというか、つまり、前述したような「納得、という感覚の、大切さ」の話を「駄目だと言える理由」として挙げる、というのは、なんか違うんじゃないかな──若干、ウソなのではないかなー、っていうようなことを、今回、改めて、思ったのだった。


▼▼と、整理していて、なぜ情けないと駄目なのか(駄目だと思ってしまうのか)、というか、そもそも、情けないというのはなんなのか(何を見ながら言っているのか)、ということを、きちんと考えたことがないじゃん、って気づいた。


▼▼情けなさの話というものを、あんまり聞いたことがない気もする。曖昧、粗雑で、にもかかわらず、人様を批難する理由にされがちなもの(曖昧で粗雑なほうが人様に文句言う理由にしやすいのだろうけど)、な気がするのに、あんまり検分されていない(されているのを見た記憶がない)の、珍しいなあ、とも思った。


▼▼「情けない」ことだって別に駄目じゃない、とか、そもそも「情けない」とか好き勝手に言ったり言われたりしているわけだけど、この言葉って、こんなにも曖昧かつ粗雑なところがあって、たとえば、こういうシチュエーションとこういうシチュエーションを比較したら、うまく言葉が出せなくなったりもするし、碌な概念じゃないぜ、気にしないほうがよい、とか、そういった「検分文章」があるだけで(読ませていただけたりしただけで)、気が楽になったり、頭が整理されたり、することがある。あると思っている。


▼▼じぶんがあんまり気にしてなかった(観測範囲に入れてなかった)だけかなー。

類似品比喩をまじまじ見比べる視力トレーニング

▼▼ぱっと見、現象としては近似しているので、比喩として扱った時に「同系統の比喩として使ってしまっている」ことがあるけれど、実際の物理現象としては、中身がかなり違う、挙動がだいぶ違う、ぜんぜん違う反応である、ということがあって、このあたり、細部の、繊細な、違いを、じっと見つめることで、眼差しの解像度上がりそうだな、というようなことを思った。
▼▼食物を乾燥させることで体積を減らせることと、圧縮ソフトでデータを小さくできることを、なんとなく類似品として扱っているところがある(こういう現象について、区別なく「比喩として使おうと思えてしまう」ところがある)(実際に、圧縮と言えそうな現象について話そうとして、乾物とデータ圧縮ソフト、いずれの比喩を使おうかな(まあ気分で決めればよいか)と思ってしまったことがある)のだけど、ここを、同一視できる目と、意識的に同一視しないような目を、合わせて持っておけないかなあ、というか、油断すると類似品として見てしまうのだけど、うーん、厳密には違うところがあるわけで、そこを注視し検討できる癖があるとよさそう、なんてふうに思えたのだった。
▼▼猿も木から落ちる、河童の川流れ、弘法も筆の誤り、の三つの似た諺が持つ、些細な違いを、顕微鏡的に見つめて、実はこういう違いがある、観点や意志、効果、などが少し違うのだ、この違いを見つめることでさらにこういうことが言える、といったふうに言及している話を聞いて、凄い、と思ったり、好きだ、と思ったりしたことがあるから、じぶんもそういうものが見える人になりたい、と思っているのだろうなー、とは思った。

括弧書きツッコミと対話文(判りやすさ)、および堕落の薫り

▼▼括弧書きを使うと、人格を、二人出せる、というか、ツッコミ役を出せる。このことによる「文章の判りやすさ」的効果がある、とも思う。
▼▼対話、会話、による文章の判りやすさ、というのがある気がしているのだけど──だからこそ、初心者向けの書物で対話や会話が採用されていることが間々あるんじゃあないの? と思っていたりもするわけだけど、対話文や会話文が判りやすいこと、と、前述した「括弧書きツッコミ役がいること」は、類似品、と認識してしまってよいのかなー?
▼▼対話はメインが二人いるように思えて、括弧書きツッコミはメインとサブがいるように思える、気もするし、若干違うのかなあ、とも思ったりはした。
▼▼小説を読んでいる時に、「ここの文章は人の台詞である」と思って読むと、地の文を読んでいる時とは、理解度というか、手触り、掴みかた、みたいなものまでが変わる気もしていて、このあたりのこととも関連して考えている。ツッコミ役がいると、文章が客観的になって読みやすくなる、細かい「気になるところ」を対話相手が指摘してくれるから説明不足が減る、というようなことがあるとは思うのだけど、台詞であるという認識、によって、対象の文章を読むための「枠組み」自体が変わる、ということがあるのなら、客観性、だけのことを考えていても駄目そうだな、って思ったりしたのであった。


▼▼括弧書きは堕落を誘うのでは──丁寧な言葉運び、論理の整理、をサボり始める理由になりがちな気がする、というようなことを思うこともあって、以前は「括弧書き」を原則禁止にしていたりもした。まあ再検討してもよいかもなー、とも少し思った。
▼▼村上春樹の文章を、前に、ひさしぶりに読んだ時に、あ、括弧書きって面白いな、と感銘を受けた瞬間があったので、書いてみようと思って解禁したのだった。この契機のことを忘れそうなのでいちおう記録しておこう。

説明を省きます(じぶんにも?)

▼▼じぶんが知っていることを「誰だってこれくらい知っているだろ」と思って、(面倒くさがって)説明を省略し、文章を書いたとしたら、まあ、伝わらない場面が増えるだろう。と同時に、判りきっていることを細々と説明され続けたら、飽きる、つまらなくなる、ということも、まあある。説明量の比率が大切、という見かたが、だからあって、とはいえ、唯一解と言えるような最適の比率はないので、対象読者を想定し、読ませたいところに合わせて、説明量を決める、ということが、求められてきたりするんだろうな、っていうことも合わせて考えたりしている。


▼▼っていうのはあるにせよ、たとえば、ほんとうに「じぶんしか読まない」日記、というものを想定し言葉を書いているような時──時に、如何ほどの説明量が最適なのか、ということを決めることって、できるのかなー、と、少し、思ったりした。じぶんだからこれくらい判るだろ、という判断って、当てになるのかな……。
▼▼そしてまあ、じぶんの日記を読み返すのは好きなほうであり、じぶんの日記を読み返していると、わりとよく、おお、なるほど、と感心させられたりしているので、じぶんにとって判りきっていること、というのを、あんまり沢山は書いていないはず(結果的にわりと省略してるはず)(でもそんなに滅茶苦茶省いてるつもりもないのだけど……)、ということも思ってしまったりするのだよな。


▼▼文章を書く、ということの効果とか利点とかの中に「じぶんでも思ってもみなかったことが、しかし、じぶんの中から(じぶんの内部だと思えるとこから)出てくる」というのが、まあ、あるのだと思うけど、その、無意識、操作不可能性、みたいなものの、面白さとかよさとか怖さとかの話、とは、えーと、別、になるのかな……。


▼▼じぶんでも判りきっていないところの話を書くことが、楽しいじゃん、好きだ、みたいなことはかなりあって、でも、そればっかり(そのあたりの快楽ばっかり目を奪われて)書いていると、読み手に、伝わらない(ことが増える)ので、じぶんにとって判りきってる前提みたいなこともきちんと書くとよいよー(書いたほうがよいか検討するとよさげだよー)、という指針があるのは判るし認識しているけれど、判りきっているかどうかなんてじぶんのこととしてもちょっとあやういのに、そのへんをうまく調整できるつもりなの? みたいなことを思うけど、だからって、「じゃあ、どうせできないので、やりません!」って投げ出すのも頭オカシイので(たぶん多少はできるし)、やればよいのか……。▼▼というような混乱があるのかな。
▼▼ぴんときた論旨みたいなの、なんか、むっちゃ捉え損ねてる気はする。