世界は称賛に値する

日記を書きます

十二月、年の瀬、リセット空気

▼▼年の瀬だ。瀬というのは「川の流れが速いところ」を意味する言葉のようだ。師走という言葉と同類と言える。十二月は速さが特色なのだと認識した。▼▼なんで十二月は忙しいって決めてかかるんだよー、なんてふうに思っていた時期はある。あるのだけど、十二月は忙しいものなのだ、と決めてしまうことによるメリットもあるようだ、と経験的に理解できるようになって、納得もできるようにはなった。皆が一斉に取りまとめる時期があったほうが楽ちんではあり、同時に、前倒しにしてでも皆で同時に休みましょう、という時期もあったほうがよさそうなのだ。総決算的に取りまとめるための忙しさと年末年始に落ち着けるための忙しさ。▼▼なら二回に分ければよいのに、なんてふうに思ったりもしたけれど、行動的には似ているわけだし、共通する事項も多そうだから、まあ、二つまとめてやってしまったほうがよいのだろう。総決算して御破算したゼロ的な空間が出来たから休めるじゃん(取りまとめることとおおきな休みを作ることは表裏一体だ)、っていう認識も当然あるかと思う。


▼▼実際のところを言えば、職業的には年末年始はあんまり休めないほうなので(慣れている)、別に、だからせわしなく今月は頑張って仕事を収めましょうね……! というような気分はない。年末年始に流れの中で「御破算」っぽい空気をまとって、また零から認識を始めちゃいましょうかー、と思うようなことも、まあ積極的にはしないようにしているところがある(しないようにしてきたところがある)のだけれど、それでも、以前よりは、いくらかは思ってもよいかな、思ったよりはよい効果があるな、なんてふうに思えるところは出来てきていたりする。▼▼ここまで生存してきた中で積み重なってきた澱のようなものが、やっぱりあるにはあって、これらを「無し」にしてみせる効果が、年が暮れ年が明ける瞬間、には、まあまああるように思えるのだ。皆が「また終わるねー、また始まるねー」と騒いでいる祭に乗っかってみせることで、浄化っぽいことができるところがある、と、思えるようにはなってきているのだった。▼▼こんなふうに皆様から得られる雰囲気に相乗りしながら一緒にリセット的な精神行動が出来るタイミングなんてなかなかないよね……、と、笑いながら思えるようにはなってきた。

五分五分の時の選択肢、どちらに振れるか

▼▼たいていのことはケースバイケース、というか、毎回、随時、何が適切か妥当か有効か、よいか、については、試行錯誤を重ねたほうがよいんだろうな、と思っているところがあるわけだけど、そして、誰かに「これの答えは何?」と聞かれた時に、そういうのは毎回丁寧に考えてみることが大切だ、と言ってみせるような癖もあったほうがよい、とも思っているのだけれど、あることに迷い悩んで、答えを求めるようにして、頭の中で一人問答している時に、ケースバイケースだから!ケースバイケースだから!って言葉を脳内にぶつけ続けていると、いいかげんにしてくれー!と思ってしまうことなんかもあったりはして──
▼▼まあなんというか、ケースバイケースであることはもう重重判っていて、ケースバイケースが大切だね、と思っているからこそ、随時検討せねば!と思い、実際にいろいろと検討も重ねて、丁寧に考えた結果として、「うーん、これはもう、残りは読み切れないところばかりだし、情報だっておそらく増えないだろうし、五分五分、と言うしかないな……、思うしかないな……」と思えるようになったというのに、そして、ここから先はもうじぶんで決断するしかないのだ……、そういう段階だ……、とさえ思えるようになったというのに、にもかかわらず、こいつはまだ「ケースバイケースケースバイケース」言ってくるのかよー、しつこいよー、判ったよもー、というような状況になることが時々はあって、最終的には、うるせえ!!!、って思い始めてしまうことなんかも、まあ、あったりする。するなー、って思った。
▼▼昨日の日記の続きというか、ぼんやりしていたところの補助線的な記述し直しかな。


▼▼ケースバイケースって大切!と思っておこう、に、重心を置きすぎて、よく判らない混乱に陥ってることがある……。というのをなんとかしたがっている模様だ。
▼▼五分五分っぽいな、という判断(気分)を持てるところまで検討を進めたのに、ケースバイケース、って言葉に踊らされて、スタートラインに戻りたがる癖がある。


▼▼ここから先はまあどちらがよいか五分五分だろう、思った時に、何を求めるか──どちらを選択したがるか──どちらに「選びたさ」を感じてしまうか──「選ぶ理由」があとは頭の何処から出てくる(出てきうる)か、っていうようなことを、じぶんの中でちゃんと大切にしたほうがよいのでは、ということについて、考えている、かと思う。


meltylove.hatenadiary.com

唯一解のような正しいやりかたはない(のだろうけど)

・消極的と積極的
・内向的と外向的
・規則遵守と臨機応変
・懲罰的と甘やかし的
・許容的と修正的
・遠慮と素直/謙虚と傲慢
・統一的と破綻的
・悪意前提と善意前提

▼▼以上などを(例)として。

▼▼人生における壁や障害のようなものにぶち当たったり乗り越えられなくなったりした時などに、困ったり、迷ったり、竦んだりして、どちらがよいのだろう──どちらが正しいのだろう──どうしておけば問題なくて間違いないのだろう、なんてふうに脳を使い始めてしまい、いやいやいやいや、こういうのってそういう問題じゃないから……、と、じぶんの頭にツッコんでしまうことがあるのだけど──毎回ちゃんと考えろよー、前に一回出したような答えに安住したり依存したりするのはやめときなさいよー、やりかたAとやりかたBの両極のどちらかが「正解である!」みたいな思考停止もやめてよー(比率の問題、および、平衡の問題、同時進行とか切り替えの問題、とかとかで捉えられないと、こういうのは駄目……)、と、思考をし直してみることがあるのだけど──
▼▼しかし、基本的にはどちらを選んでいるか、っていうのもやっぱりあるのだよな、ということを、改めて思ったりした。


▼▼「基本的には」どちらのほうがよいと思っているか。
▼▼「基本的には」(すでに)どちらを選んでしまっているか。


▼▼世界観や思想の、下地、枠組み、隠し味、になっているような、自然体での眼差し。


▼▼正解なんてないんだ、毎回考えるんだ、どの「決定」もぜんぜん正解じゃないし、だから、どれも「じぶんのではない」のだ……! なんていうようなツッコミを、ただただ続けてしまっていると、じぶんの中の、前述したような自然体の眼差しを──世界観や思想の根底にしているようなものたちを、見逃してしまいそうというか、見失ってしまいそうというか、見誤ってしまいそうというか、無意識に、押し潰してしまう、ような瞬間がありそうで、あー、それ、駄目かもー、と、見つめ直してみたのだった。

『ストーンエイジ』で初めて遊んだ(ボードゲームアリーナ)

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▼▼石器時代の村の進展を舞台にしたボードゲーム『ストーンエイジ』で遊んだ。初めて遊ぶゲームだ。ボードゲームサイト「ボードゲームアリーナ」でオンライン版を遊ぶことができる。以前から非常に気にはなっていた。初心者脱却かつ中級者入門には程よい、と聞いていたからだ。ワーカープレイスメントというゲームシステムに慣れるのにもよい雰囲気だ、とも聞いていた。実際、よかったと思う。新鮮かつ気持ちよく遊べた。ワーカープレイスメントって楽しいシステムだな、というのも初めてはっきり思えた気がする。

▼▼ワーカープレイスメントというのは、盤上に、この位置に人を派遣することでこういう効果が得られるよー、と書かれている「地点」がいくつもあって、手番ごとに、人間コマ(ワーカー)を置くのに最適なところは現時点では何処なのだろう、と考えさせられるシステムのことだ。たいていはプレイヤーごとに順番に置いてゆく。
▼▼やれることがうまく可視化されて、効果の順位や順番が問われつつ、早い者勝ちという縛りまで出来たりする。しかも直接的でない攻撃まで可能にする。
▼▼選択肢の量、行動ごとの機構の違い、効果のおおきさの相対的な違い、短期および長期の利点欠点、ほかの人についての推測および妨害、等々の調整具合によって「ワーカープレイスメントとしての難しさ、そして面白さ」が変わってくるのだと思うのだけど、流石に「初心者を脱却するのにおすすめだよー」なんてふうに言われることのあるゲームだけあって、程よい、と思えるところがけっこうあった。程よく頭が働いてくれた。


ja.boardgamearena.com


▼▼おのおののプレイヤーに、人間コマを五つ、食糧コマを十二個、まず配ってから、ゲームを始める。▼▼村および村の周辺で、食糧や資源を集め、道具を作り、畑を耕しながら、家族を増やしていって、建物を建て、そして文明を獲得してゆく。▼▼最後は「建物タイル」と「文明カード」が勝利点となる。ので、決め手はここになるだろう。


▼▼「建物タイル」と「文明カード」を獲得するためには四種類の資源(「木材」「レンガ」「石材」「金塊」)が必要になり、四種類の資源を収集するのには「人間コマ」と「道具」が必要になって、人手を増やし維持するのに「食糧」や「畑」が必要になる、という流れである。木材→レンガ→石材→金塊の順番に獲得が難しくなる。おのおのの資材に難易度としての「価値」が設定されているのだ。
▼▼食糧や資源を獲得する時には「採集に行った人数分」のダイスを振る。出た目を食糧や資源の「価値」で割り算して、獲得数を決めるのである。つまり、価値が高いものほど獲得数が減る。最も貴重な金塊なんて価値が「6」だから、収集に向かったワーカー数が一人だったら、ダイスを一つを振って6が出せないと、完全に無駄足になってしまう。二人で行ったところで二個取れるか怪しいところだし。▼▼補助として、道具、を製作することによって、振ったあとのダイス目にボーナスが足せるようになるのだけど、最初のほうなら、よくても+1か+2、頑張って+3とかだったりもする。地味だけど、道具を製作し続けることで、思いのほかおおきな効果が発揮されたりもする。


▼▼資源を獲得する時にダイスを振るのが独特、という印象はあった。ここのランダム要素については好評も不評も聞かれるようだった。結局は運で負けてしまった……、という状況がありうるからだろう。ありうるというか、目立つせいだと思う。ダイスの目がぜんぜん奮わない時ってほんとうに苛立つ瞬間があるし……。結果として、気になるし記憶に残りがちなのである。ということがマイナスに思えることは当然ありうる。逆に、あまりにダイス目がよくて変に圧勝してしまってもそれはそれで微妙だったりもするし。
▼▼とはいえ、おかげであんまりガチガチかつキツキツな空気にならない、という雰囲気があるじゃん、とも思えるところがあって、現状だと、このあたりに利点を見ている、と言えるかな。▼▼運という制しきれないし読み切れない要素を挟んでおくことでプレイヤー間の落差を埋める、という楽しさ製造法(維持法)の一つだ。

深夜作業と記憶妄想

▼▼深夜に黙々と働いた。同じ姿勢を続けていたこともあって躰が痛くなっている。
▼▼時間は沢山あったので、もっと創作的、より創造的、なことでも考えて試行錯誤を重ねていればよかったのに、というようなことを思ったりもしたのだけれど、ぜんぜん思いつけなかったなー。昔のことばかり考えていた気がする。思い残しばっかり考えていた印象だ。躰がイタイツライという状況になると思い出に向かう傾向がある気はする。妄想気味な雰囲気もあるなー。妄想と思い出はけっこう似てる(似せている)かも。妄想と同じ枠組みを使って記憶検索している時がある、なんてふうにも言えそう。

読書は「ごはんを食べる」で比喩できない可能性高そう

▼▼物理的吸収、生理学的吸収、栄養学的吸収などなどと、意味的吸収や解釈的吸収というものを、安易に並置させてしまうのがよくないのかもしれないなー、とか、改めて少し思った。▼▼読書的な摂取を「ごはんを食べる」で比喩するのは危うそうだよー、というか。
▼▼解釈によって意味合いが変わってくる、ということを──受け手次第なところがあるのだ、ということを、このあたりに関する要点と見るとして(ごはんを食べる時に「解釈の余地」なんてものは(おそらく)ないから、解釈如何によってよくも悪くもなるであろう読書と安易に並置はできないのでは? ということを今は考えているので)、関連する話として、理解、学問、理論、といった事柄を、どのあたりに位置づけるか、っていうことも、いろいろと問題にはなってきそうだなー、ってことも考えた。
▼▼学問的理解と解釈の関係……。▼▼理解する、っていう行為における「解釈」「解釈の余地」ってどういうふうに思っておくとよいのか……。▼▼物語の摂取を「ごはんを食べる」と比べるのはちょっと、とも思うけど、知識の摂取は「ごはんと食べる」と、ほのかに近いような? 物語よりは相対的に近いと言えそう?──解釈の余地が物語よりは少なそうな雰囲気あるし……、とかを考えてしまったのだった。