世界は称賛に値する

日記を書きます

ディープラーニングとヴァーチャルリアリティ

newswitch.jp

▼▼囲碁で異質な強さを見せつけたあたりから「ディープラーニング」という技術が、そして、プレイステーションVRを含めてゲーム化が行なわれるようになったあたりから「ヴァーチャルリアリティ」という技術が、大変、話題になってきていて、どちらも今後のコンピュータのありかたをおおきく変える技術になるんだろうな、という匂いを強く醸し出してきている。おおきな転換期に立ち会っているように見える。マジですごいな、と瞬時に思わせられることも多い。ディープラーニングを使って作られた人口音声(開発中)をこちらで聞いたけれど、これまで聞いたことのある人口音声(ボイスロイドなんか)と比較しても、ちょっと驚くくらいの出来栄えだった。肉声と遜色ないと思った。ヴァーチャルリアリティゲームに関しても、ほんとうに、見ているだけで胸が躍る。ドキドキワクワクする。プレイステーションVRは、とりあえず、買えるようになったら、すぐに買うつもりだ。ここには投資してみてよい、試してみてよい、進んでしまってよい、という気持ちがある。この転換期に立ち会いたいぞ、という気持ちはかなり強いのだ。今後の進化にはついていけないだろうな(本格的なものが来る頃には死んでるだろう)、ということに関しても、寂しさは覚える。ここから来るであろうSF関連なりの変質とかも滅茶苦茶楽しそうだしなあ……。まあ遊べるだけ遊んでゆくつもりではあるけれど。あとまあ、関連技術とも言えるけど、写真や動画における360度撮影技術も、非常に楽しい。これも今はカメラが数万円で買える。3Dプリンタのことも思い出したけれど、このあたり、ぜんぶ、コンピュータの位置を変える可能性があるのに、まとめて、手の届くところまで降りてこようとしている雰囲気なので、ビビる。繰り返しになるけれど、でもって、これまであんまり思ったことなかったけれど、あと少し遅く生まれてきたかった、的なことには、なっていってしまうかもしれないな。コンピュータが普及した時代に生きられただけで幸せ、みたいなことを思えていたのに、少し、くつがえされそう。

PlayStation VR PlayStation Camera同梱版

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RICOH デジタルカメラ RICOH THETA S 360°全天球カメラ 910720

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最初に買ったライトノベルを思い出してみるだけ

▼▼小学生の頃にファンタジー小説を読み始めた。当時は単純に「ファンタジー小説」と呼んでいたかと思うのだけど、昨今だとライトノベルと呼ぶようになった。ライトノベルという呼びかたを聞くようになったのは大学生くらいの頃かな。ファンタジー小説、という呼びかたに関して言えば、ファイナルファンタジーの略称が「FF」ったか「ファイファン」だったか、というような地域差の話になるのだろう。学区や周辺地域でどうだったかという話である。まあインターネットなんてなかったし、誰か個人がなんとなく呼び始めて、校内で(小学校は特にそうだと思う)浸透、定着してしまったら、それが素直に皆の呼び名になっていた。うちの学校だとこう呼ばれていたなあ、なんて言えるような記憶がある品も、ちょこちょこ思い出せるし、同じたぐいになるだろう。まあ「ファンタジー小説」という呼びかたが校内で定着していたかなんて、憶えてないのだけど(というか読者同士として話すような場面があんまりなかったせいか)、なのでまあ、じぶんが勝手にそう呼んでいた、というだけか。あるいは素直に「小説を読む」と言っていた。


▼▼ライトノベルと呼ばれる小説は好きなので、最も好きな小説は? と言われた時、最初に思いつくのはいまだに『魔術士オーフェン』シリーズであったり、いやいや、と、同じ小説家の『エンジェル・ハウリング』を挙げておきたくなってみたりもして、そしてそのあとに、のちになってに出会った小説群を、ためつすがめつしてゆく、という流れに(脳内で)なっていることが非常に多い(この流れがほんとうに多い)。『魔術士オーフェン』シリーズは、比較的近年に刊行された、後日談――その後の話、としての新シリーズ、いわゆる「第四部」での物語が、改めて、すごくて、がつんと来たので、またこう、なんか、脳内ではさらにややこしいことになっていたりもする。


▼▼というようなラノベ愛にまつわる悲喜交々も含めて、「ライトノベル個人史」みたいなものを書きたくなったりすることもあるのだけど(そして同時に、そういうものを聞きたいし読みたいぞ、と頻繁に思ったりもしているのだけど、あまり「順を追うように」書いてくれてる文章って、巡り逢えてなくて、常に飢えている、ところがあったりもする……)、じゃあ、とりあえず書いてみましょうか、と思い立って、最初に読んだライトノベル、というふうに、自分史の「初手」を考えてみた時に、いつも、うーん、なんか記憶が怪しいぞ……、『ロードス島戦記』か、『フォーチュン・クエスト』か、はたまた『小説ドラゴンクエスト』か、というあたりは、まあ間違いないと思うのだけど……、詳しく思い出せない……、順序が判らない……、ってなってしまい、思考が止まるのだった。結論が出せずに半端にしてしまう。書き進める意欲も減衰しがちなのであった。


▼▼というところまで書いてみて、調べてみればよいじゃん、と思ったので、改めて調査してみた。記憶の中で、まあまあ頼りになりそうなところを補助線にしつつ、刊行時期などを調べてみる。
▼▼『小説ドラゴンクエスト』を買ったのは、刊行直後だったはずである。ドラクエ2やドラクエ3の小説も、楽しみに待っていて、刊行直後に買った記憶があるから、続篇より前なのは間違いない。また、地元の本屋にてハードカバーで買っているから、長期間、棚で埃をかぶっていた、ということもないはずだ(地元の本屋のハードカバー棚は狭かったため、入れ替わりが激しかったはずなのである)。というわけで、刊行の1989年4月ごろに買ってるはず、と言えそう。
▼▼『フォーチュンクエスト』は、一巻を買った時に、たしか、五巻か六巻が「新刊」として同じ棚に並んでいた記憶が残っている。五と六は上下巻で、この「大魔術教団」の表紙(あるいは、ノルが主役、という物語)を一緒によく見ていた記憶があるのだ。そうなると1991年の9月と12月になるのかな……。四巻が1991年3月に出ているから、多少ズレても、このあたりがズレの限界にはなるだろう。七巻刊行が、シリーズを読み始めて落ち着いた頃だったの間違いないから、1991年頃、というのは確実か。となるとドラクエよりは絶対あとだな……。
▼▼ロードス島戦記は、うーん、どうだったっけかな。一巻二巻はまとめて読んだ記憶がある。三巻は、たぶん、そのときにはもう出ていた気がする……、四巻もおそらくもう刊行されていた、かなあ……。五巻は新刊で買った記憶があるので間違いなく時期が違う。えーと、刊行は、三巻が1990年2月、四巻が同年7月、五巻が翌年の1991年2月か。刊行ペース速いな。もっといろいろ待った印象だった。まあともかく、1990年には買ってるみたいである。
▼▼順当にいけば、ドラクエ→ロードス→フォーチュン、なのか。なるほど……。

フォーチュン・クエスト―世にも幸せな冒険者たち (角川文庫―スニーカー文庫)

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新装版 ロードス島戦記    灰色の魔女 (角川スニーカー文庫)

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小説 ドラゴンクエスト (ドラゴンクエストノベルズ)

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書き手側のジャンル設計

▼▼ライトノベル/児童文学/ジュブナイル/ヤングアダルト、というようなジャンルにおける「線引きの難しさ」の話というのがあって(あと、純文学とかエンターテインメントあたりの線引きの話もあるけど)、わりと楽しく聞いていたりもするんだけど、特に興味があるのは、小説家側――書き手側、の脳内における「線の引きかた」の話で、なんというか、うーん、確かに、綺麗に定義できそうにはないよなあ、というふうには思うのだけど、でもまあ、書き手側の、計画段階において、そのへんを曖昧なままにしている――まったく判断すらすることなく進めてしまっている、っていうこともそうそうないだろう、とも思ったりするので(無論、人による、というかプロというものに夢を抱きすぎ、ということもあるだろうけれど……)、だから要するに、ライトノベル/児童文学/ジュブナイル/ヤングアダルトといったものを人が書こうとした時に、何をどう決めているのか、如何なる要素を動かそうとしているのか、どうやって特徴付けようとするのか、っていうことに関する話を、聞きたい、というふうに思ったりはするのだった。
▼▼読者や消費者や書店が線引きに困る(曖昧なままでも多少なんとかなるので、改めて精緻に決めようとすると、困る)のはともかく、小説家側が、同じレベルで曖昧なままにしておくことはあんまりないんじゃない?(うーんしかし人によるか……) っていう想像というか期待があって、なんか、そのあたりに、価値というか意味というか、面白さを見てしまうところはあるのだよなー。

知識が欲しい(幸せの話)

▼▼快楽や幸福というのは解釈次第で変質するところがあるとは思っていて、知っているかどうかということが解釈の質や幅、向き、を変化させたりすることもある、というふうにも思っていたりするので、いろいろ知っておきたいぞ、とは思ったりするし、いろいろ教えて欲しいとも、いろいろ開示して欲しい、とも思ったりする。知識と幸せが「繋がるところ」を活かしたい感覚がある、と言える。
▼▼いろいろ知って、知り得たことを、がつがつ幸せに使う、っていうよりは、楽しみや気持ちよさのために、使う――使うことにためらいはない――使っちゃうよー、というようなことを、言う。ワガママ欲張り気分で掲げる言葉だ。

むしろ膾炙している(影響力のおおきそうな)通説や一般論を日々直していく

▼▼隙だらけの――脆弱性ありきの、通説や一般論、の脇の甘さを衝いて、よし、としててもねえ、というようなことを昨日の日記の中では思ったわけだけれど、関連として、しかし通説や一般論を(個人的にでも――おのれの周辺、狭い範囲の中でだとしても)「よく」していくことが、世の中を「よく」してゆくことにも繋がったりはするのでは?(人類に少なからず膾炙しているからこそ、通説や一般論、と呼ばれるものになっているのであって、広く膾炙しているであろうものを「よく」することが、世の中に「よい」影響を与えないとは、考えにくいところもある)、だから、通説や一般論を、普段からちょこちょこ相手取って、地道に直してゆくことは、世界や社会や人類にとって、称揚されるべきことである、と、言うこともできたりするのでは?(称揚されてよい、と認識しておいてもよいのでは?)
▼▼っていう問題意識を持つことで、通説や一般論を日々相手取っているのも素敵だ、と思っておくのもよさそう、と考えたりもしたのだけど、でも、とはいえ、通説だ――一般論だ――皆が言ってるぞ、という判断も、あくまで主観ではあって、経験、所属する文化圏、交友関係、に縛られるところがどうしたってあるわけで、世のため人のため、と、その縛りの中で、どれだけ言えるんだろう、ということも、思わなくはないのであった。誰かに、世に、何かを願い、何かをしようとした時に、常に問題になる「縛り」ではあるため、あんまり気にしすぎてもよくないやつ、とも言えるのだろうけど。逐次気にする、折に触れて考えていく、というやり口しかなかったりするんだろうけれど。

meltylove.hatenadiary.com

通説や一般論を基底にしすぎるのも

▼▼通説や一般論にはよく遭遇する(だから通説だし一般論なのだろう)のだけど、遭遇した時に、隙にも気づくので(隙があるからこそ、比較的沢山の人に受け容れられやすくなっているのだし、結果として、通説や一般論になれているのだと思うが)、その隙を埋めるように試行錯誤を重ねたりもする。という穴埋め作業によって、理解が深まり、見通しがよくなっていったりもする。だから、通説や一般論を基底に物事を考えていくのはよいことだぜ、とか、通説や一般論を相手取って文章を書くと書きやすいぞ、なんてふうに思ってしまっているところがあるのだけど、通説や一般論が隙だらけなのは、やっぱり当然で――当然なので、欠落や欠損があることが前提のものばかり相手にしてても駄目なんじゃない? いやでも訓練くらいにはなるか……、しかし訓練でしかないみたいなことが言えるのでは……、というようなことを、ふと、思ったりもしたのだった。