世界は称賛に値する

日記を書きます

『ラブクラフト・レター』『桜降る代に決闘を』『ナショナル・エコノミー』『コンプレット』『HANABI』『パンデミック・レガシー』で遊んだ

▼▼ボードゲームで遊んだ。定番化、常態化、しつつある。遊ぶという行動とボードゲームするという行動の距離が非常に近くなっているなー、という印象だ。遊ぶ機会の八割くらいをボードゲーム化してしまっている、という雰囲気があって、この比率でよいのかなあ……、という気分が出ることも時たまある。ボードゲームに嵌まる前って「遊ぼう」という時に何をしてたんだっけかな。
▼▼遊ぶ相手や遊ぶ場所が定型化しているところもあるので、適当に名づけて、形式的に語れるようにしておいたほうがよいかも、というのも、合わせて思った。毎回1から記述してみせるというのも、まあまあ面倒だし……。人と場の特徴を「色合い」で名づけておくのはどうだろう、という着想が出たので、試しておく。
▼▼というわけで、今日は、2016年9月の淡藤色ボードゲーム会に行ってきた。参加者は四名。

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『ラブクラフト・レター』(二人)
『桜降る代に決闘を』(二人)
『ラブクラフト・レター』(三人)
『ナショナル・エコノミー』(三人)
『コンプレット』(四人)
『HANABI』(四人)
『パンデミック・レガシー』(四人)
『ラブクラフト・レター』(四人)

という流れで遊んだ。

▼▼『コンプレット』は初めて遊んだ。運と戦略と「触った時の気持ちよさ」のバランスが非常によいと感じた。▼▼『ラブクラフト・レター』『桜降る代に決闘を』は遊ぶのが二回目だ。『ナショナル・エコノミー』も、じぶんは二回目か。ただし、このメンバーで遊ぶのは初めてだった。『HANABI』は友人が、前回遊んだ時に日本語版を買っていたのでそれで遊んだ。多国語版で遊んだことは数回ある。『パンデミック・レガシー』は二回目、二月目だ。レガシーはストーリー仕立てで、メンバーも固定されがちなゲームなので、遊ぶ機会が限定される(レガシー型と現状では言われている、のかな)。

よくある言いかたで言い表してしまい、なんか少し掴み損ねる

▼▼常套句や慣用句を取り出してくることに躰を慣れさせてしまっているせいで――適合率に多少の違和を覚えていても、多少合ってれば、無理矢理嵌めてしまうことに、なんとなく慣れてしまっているせいで――聞き慣れた「よくある言いかた」を排除し、しっくりくる言葉を模索し続けてみる習慣が身についてないせいで(まあ、めんどくさいはめんどくさいし)、じぶんの内心を、誤解する、勘違いする、掴み損ねる、ということが、けっこうあるな、とは、頻繁に思うことがあって(掴み損ねた!とか掴み損ねそうだった!と自覚することも多々あって)、このあたりが言葉の一番好きじゃないところ(なんとかしようぜ、と思っているところ――避けたほうがよさそう、と思っているところ)かな、とは思った。怖れているところだ。


▼▼常套句や慣用句は文章が見せる新鮮さを殺しがちである、という話がある。見慣れた形状、見飽きた概念、を提示してしまうことで、知ってるやつだ、あのパターンだろ、あのスキーマで読めばよいか、と思わせてしまい、結果的に大雑把な枠組みで認識され、結果として細部の味わいが殺される、といった状態だ。▼▼読み手に対して常套句や慣用句が引き起こす難点――。この難点よりも、前述した難点のほうが、より怖い、気をつけたほうがよい、という感覚が、じぶんの中にはある、かなー。嫌いだ。▼▼「人が常套句を使って何かを発言している」という現象の中に関しては、活き活きとした感じが死ぬ、というような難点のことよりも、認識に一部欠落が出たりしがち、じぶんの胸中を掴み損ねるようなことが起きがち、ってことのほうを、まず、気にしたほうがよい、といった人生観、および優先順位、が、あるのだ。あるっぽいな、と改めて認識した。

よく見るやつ、というコンセンサス

▼▼常套句や慣用句にあんまり頼りすぎると(しかも、無自覚かつ脊髄反射的に、使う癖がついちゃってるような状態ならなおさら)、言葉から生き生きとした実感のようなものが醸し出せなくなりがちだし、じぶんの胸中でも「繊細な思い」みたいなものを掴み損なう状態が継続してしまい、ダメージを負い続けてしまう、というような説明の背後にある、よく見るやつ、っていうことのコンセンサス(双方の合意)が取れています、っていう信仰のことを今日は思って、うーん、って唸っていた。

物事の何ステップ目をいじるか・補足(引き続き混乱中)

meltylove.hatenadiary.com

▼▼出来事はそれぞれのステップに分けられるんじゃなかろうか――改善する時には「どのステップを選ぶか」という選択肢がある(と考えてよさそう)――改善どころの向き不向きが人によって違うのかもしれない――慣れてるステップの変更しかたを人に薦めてしまいそうだけどよいのかな? というあたりの話を、昨日は書いた。
▼▼読み直していて、出来事の「物理的なステップ」についての話のような雰囲気が出てしまっているな、と気づいた。物理的ステップの話でも通じる話だとは思うのだけど、当初、頭の中にあったのは「心理的」「精神的」なステップ、ことであって、このあたりを区切れてないじゃん、整理できてないぞ、と思ったのだった。


▼▼物理的ステップというのは、料理が出来上がるまでの段階、あたりの形状で説明が可能なんじゃないかなー。
▼▼「完成させる料理を決める」→「食材を買う(より安いところで買う、旬の物を選ぶ知識がある、同じ素材を買うんでもよりよいものを選ぶ、などの含む)」→「下ごしらえの腕前と手間暇を惜しまないところ」→「切る」→「煮たり茹でたり焼いたり」→「味つけの選択」→「盛り付け」→「料理を出す順序、全料理のバランス」といったような流れが「物理的ステップ」である。
▼▼こういった流れの、おのおののステップに対して、目指すゴールが同じなら、違うステップを変える手もあると思うし、そして、人それぞれの得意分野があるだろう、だからまあ、得意分野で攻めるとよいのでは? といった話に見える可能性があるな、と思ったのだった――そう見えても問題はない(話は通る)と思うのだけど、当初、念頭にあったのってこれじゃなかったな、と気づいたのだった。


▼▼対して、心理的ステップという言葉は、ある出来事があって、それを知覚し――解釈し――覚悟および決断することなども含めて、結果として、感情が動く、楽しく思ったり悲しく思ったり苛立ったりさえする、といった、ある出来事を「じぶんがどう受け止めるか」というようなところの流れを指すものとして、使っている。
▼▼この出来事を受け止めるまでのステップ、ということを考えながら書いていた。


▼▼不満を覚える出来事があった時、そしてじぶんが不満を覚えていると認識した時、出来事自体を手ずから変えてしまうことに向いている人もいれば、受け止めるじぶんの心理をコントロールすることに向いている人もいるだろうし(出来事が持つ量や質によっても変わるだろうけれど)、また、心理をコントロールするにしても、我慢的なことが得意な人もいれば、我慢じゃないように解釈を変えて受け止めるのが得意な人もいるだろう(我慢の限界だってあるだろうから、出来事の「難点」の量や質によっても変わるに違いないし、その「量や質」を見極める手腕の違い(向き不向き)も影響してくるだろう)。
▼▼解釈を変えるにしても、多面的に見ようとしてみせることで別解釈を見つけるのが得意な人もいれば、あえて見ないところを作ることで(遮断することで)解釈を変えるのが得意な人もいるだろうし、実際的な情報を増やしてみせることで別解釈への道を切り開くのが得意な人もいたりするように思える。


▼▼うーん、とりまとめると……。
▼▼ある出来事にストレスを覚えている人がいて、この人物がすっきり健やか、晴れ晴れとした気持ちになる、なれる、ということを目標にしてみた時――そのための方策、というものを模索してみた時、どのステップに手を加えよう、どのステップを変えることが効果的だろう、どのステップを変えるのが向いているんだろう、と考えるのは大切だし、どのステップを調整するんであっても結果的にゴールにつければよいのだから、一つの(例えば最初に思いついた)ステップに拘んなくてもよいのだ、そして、一つのステップに手を加えるにしてもやりかたは様々なのである、というようなことを意識できていることが大切だろう、みたいなことが、当初の頭の中にあったものたちなのだった。
▼▼と、このあたりまできて気づけてきたかな……。
▼▼ストレス解消手段、切り込みどころと調整手段、いろいろあるんで、いろいろやりましょう、合ってるやつ探しましょう、とも、まとめられる。

物事の何ステップ目をいじるか(混乱中)

▼▼物事を改善しようとした時、どの「段階」に手を加えて「変化」させるか――させようとするか、というのは、人によって、違う。見えるところ(認識範囲)が違うし、変えられるところ(技量のおよぶところ)が違うし、向き不向き(効果のあるところや、効果的なところ)が違うだろう。▼▼現状(スタート)が同じであり、目標(ゴール)が同じでも、人によって、何ステップ目をいじればよいか、が、変わってくる。
▼▼じぶんにとってステップ3をいじるのがたいていちょうどよいので、経験から、人様に対して、ステップ3を変えましょうよー、とか言ってしまいがちだけど、人により、そして現象の性質によって、向き不向きがいくらか変わってくるのは間違いないので、助言してもあんまり効果がないことだってある、時には害にさえなりうるかも、そのあたりは注意および覚悟しておいたほうがよいのではなかろうか、というようなことを考えていたのだけど、このへんに対してそんな話しててもな……、という気もしてきた。
▼▼ステップ3がいじれる、ということを認識できていなかった相手なら、非常に有効な助言になるかもしれないし、認識はできていてもうまく動けていなかった人が、運よく効果的な挙動を取れるようになるかもしれない、ってうのはやはりあるし、そもそも、ほかのひとの話を耳にして――別の考えかたについてのことを聞いて、なるほど、と思い、なんとなく視界が開ける、なんてこと、いくらでもあるじゃん、っていうか、人と人の関係性の中じゃ無数にあるじゃん、と思うわけで、逐一気にし続けていてもあんまり意味なくない? 無数に降り注ぐ流星を見極め続けろみたいなこと言ってても無駄じゃない? なんてことを思うのだった。


▼▼助言する側の心構え心掛けの話と、話を聞く側、の、混同が起きてないっすか? と思い始めたけど、現象の構造というか、そういうところを整理したがっている、のだとは思う。混同っていうか、ぶれ続ける/ぶらし続ける、というのはやってそう。ぶれぶれなのと混同ってほとんど同じじゃないの、という気もしつつだ。


▼▼だからまあ、じぶんの慣れたステップ改善の話を積極的にしていけばいいんじゃないの? と言いたがっているのかなー、って思ったけど、そういうことでもないような。相手によって向き不向きがあるので気をつけよう、とするのは、よいことだ。


▼▼まとまりはない。落ちもない。
▼▼うーん。
▼▼ただ、ここで行なった「物事にはステップがあるよ」「どのステップに手を入れるかは人によって違うし、違わせることができるよ」というような「話」に対しては、誰に対してもわりと有効な助言になるんじゃないだろうか? こういう認識って皆が持っててよいものなんじゃないの? というようなことを思ってしまっている気が、する、んだよなー。ここに少し矛盾がないか? と思うところはあった。▼▼相手によって有効となり有害となる助言が変わってくるので、ほんとうにそれが妥当な助言かどうかは気をつけようぜ、ということを「ステップがあるね、っていう話」にはあまり思えていないのだ。
▼▼こう考えたほうがよくない? こう動いたほうがよくない? というような「助言」と、構造を整理してみせるような「助言」を、なんとなく、別の「質」のものとして、見つめている、気がしたのだった。▼▼このあたりの「対比」のことをそもそも語りたかったのでは、っていう気も、少しした。


▼▼こういう構造じゃない? という言葉は「助言」ではなく単なる「説明」になるのでは? しかし、こういう考えかたがよいでしょー、妥当じゃん? みたいな話だって「説明」と言える気もするけど……。
▼▼迷路、というものについて話すのと、目の前にあるこの迷路の形状について話してみせるのと、迷路の攻略法について話すの、の、違い、っていうことが思い浮かんだ。このあたりを物差しにしながら再整理かな……。

再検討鈍重

▼▼普通じゃん、当たり前だ、もう知ってる、改めて言わんでも、と、瞬時に感じてしまうような話に、再検討の眼差しを向けようとするのは、難しい、っていうか、重いぞ、と思ったのだけど、やってみたら、やはり面白かったので、この精神的鈍重さにはいくらか対抗できるようになっておかないと、と、改めて思った。