世界は称賛に値する

日記を書きます

『ファイナルファンタジー15 キングスグレイブ』の冒頭公開がよかった

www.youtube.com
▼▼ファイナルファンタジー15が11月に発売される(当初の9月からは延期された)。
▼▼前日譚となる劇場版が、現在、劇場公開されている。面白い面白い、といった評判は聞いていた。一回ご覧頂ければ面白さを判ってもらえるだろう、という心積もりなんだろう。冒頭部がWEBで公開された。ので、観た。大変よかった。冒頭部だけでも観てもらえれば、と思う気持ちは判った。


▼▼ファイナルファンタジーの昨今の作品は、あんまりやらなくなっている。以前のもののほうが好きだった、という気分もないではない。でもまあ、これは面白い!と思えるところが、今回の冒頭12分に対しては間違いなくあって――魔法と機械、王国と帝国、巨大な召喚獣、あたりに盛り上がってしまうところがあって、ファイナルファンタジーで育てられてきてしまったのもあるし、やっぱり、好きなんだな、って、思った。気持ちが落ち着いた。無論、改めて、ここで、よいものを出してきてくれた、と認識しておくのが、妥当ではあるのだろうけど……。とにかく期待が高まった。映画館には行こう。
▼▼あとはPS4を買うかどうかだなー。というか、ゲーム版が面白いかどうかだなー。そこに関してはまだまだ不安が残る。映画のストーリー的な面白さから、少なくともストーリー面では期待できそう、と思ってしまってよいかも、判らないし……。劇場版が非常に面白かったらゲーム版も気になるだろうし、気になっている。そのあたりをどうしようかなというのがある。▼▼PS4自体は、近日『ペルソナ5』も出るし、しかもこちらは滅茶苦茶明らかに面白そうな匂いが出ているし、検討してみてもよさそうかな……。

バランスの取りかた

▼▼楽観ばかりでも悲観ばかりでも、生きづらさのようなものは出がちである。楽観目線7割、悲観目線3割、程度の「眼」を生成し、維持できるなら、おそらく理想的だろうと思っているところがあるのだけど、割合を調整しながら生きようとすると、普段から平均台の上で過ごすような難しさ、苦しさ、などが出てきてしまうため、実際、あんまり現実的ではなかったりもする(とはいえ、並外れた平衡感覚でそれが実践できたり、そもそもデフォルト値が7割3割の人もいるだろう)。
▼▼っていうようなことを考えてみた時に、一時間のうち、40分を楽観的に、20分を悲観的に、生きられればよいのでは、とか、一週間のうち2日と5日でノリを変えられればよいのでは、とか、それくらいの「ペース」で、複数の、脳、眼、気分、を行き来させられるなら、それもアリでしょ、って思うようなことが、ある。思ってみることが多い。
▼▼マイナスっぽい10分、マイナス雰囲気の一時間、マイナスなノリの1日、マイナスにまみれた一ヶ月、が、あってもよい。あってもよいだろう。バランスの取りかた、バランスを取るための幅、はいろいろだ。

人付き合い

▼▼他人に対する苛立ち。期待するから、過信するから、買い被っているからこその、苛立ち――期待しないからこその、苛立たなさ。そして、過信か、買いかぶりか、つまりは妥当な評価かどうか。
▼▼期待しない場合、それを諦めと称するか。それとも、敬意とともに線を引くか――敬意とともにじぶんと違うことを見つめるか。あるいは、ただただ無関心の線引きか。
▼▼他人をじぶんと同等、同種、と見做すか――想定のデフォルトか。あるいは、異なる価値観の人間をデフォルトとしているか。
▼▼じぶんと似た価値観をよしとするか、じぶんと異なる価値観をよしとするか。


▼▼というあたりのことについて、少し、談義する場面があった。比較的、遭遇率の高い問題空間だ、という印象は強い。これまで話し合いを行なうようなことが多かった。理想的な調整は難しいぞ、という印象や経験則も強い。理想を具現化させるのはほとんど不可能であろう、と、思うようにもなっている。
▼▼おおまかに理想形を言うならば、ぜんぶの意識型(期待する意識型、期待しない意識型、諦めたり、諦めではなかったり、人を自らの延長線上で見たり、自らの延長線とは違う位置で見たり、という、様々な意識のありかた)を、並列的に「存在させて」「常駐させて」おいて、各処理が出してきた「結果」「結論」を、うまく、よいトコ取りする、というようなことを、考えてはいる、かな。単騎の「うまいやりかた」を選びましょう、という攻めかたでは「うまいやりかた」まで辿り着けないイメージだ。
▼▼コンピュータゲーム(RPG)で、攻撃力と防御力、素早さ、お金、冒険の進行速度、レベル効率、ゲーム機のスペック、何を大切にすればよい? っていう「問い」を抱いてから、一つだけ選んで、それだけに集中してみても、駄目――実現されない、というような形状だろう。
▼▼単騎じゃ駄目、っていうのは判ってるんで、複数の処理を「並存させる」という前提のもとで、割合、優先順位、コンテクストの持っていきかたや維持しかた、各処理の得意分野や苦手分野、とかを聞きたいんですけどね……、と言われたら、まあ、そ、そうだよね、ってなるはなる。

すごいことを思っている、ことに、いつの間にかなっている(じぶんの中で)

▼▼あんまり明確ではない意志や感情を確認するために、じぶんは今こう思っているのでは?と、仮説を立ててみることがある。比較的明瞭な思考や行動、感情を元にして(遡及的に)、深層心理を仮定してみることがある。
▼▼っていうふうにして思いついた深層心理にまつわる仮説、を、うまいこと正しいものにしてあげるべく――仕立て挙げてみせるべく――別の仮説を改めて打ち立てるのも、若干めんどうくさいので、この仮説に正当性を持たせながら打ち立たせることができるのならば、それに越したことはない、という惰弱さや粗雑さも織り交ぜつつ――せっかくうまく出てきてくれた仮説を無碍にするのは忍びないし、執着もしてしまいがち、という習性が絡んだりもしてきつつ――、とにかく、あの手この手を尽くして、その仮説の前提や接続先を、綺麗に、地固めしてあげることが、ある。あったりする。
▼▼という時に、こう思ってると仮定するなら、そしてそれが正しいなら、こうも思ってるはずだよなー、と思いついてしまい、そして、正当性を持たせるために「実際じぶんはそう思ってるはずだ」って決めつけてしまい、思ってもいなかったようなことまで「じぶんが思っていることにしてしまっている」ことがあったりも、するんだよなー。▼▼いつの間にかすごいことを思わせられている、思っていることにされている、すごい位置に立たせられてしまっている、というような場面がある。遭遇する。
▼▼整合性のためにそこまで思ってることにさせられるんすか……、というようなことになってたりする、のを、自覚した。いやいやそこまでいっちゃうなら、流石に仮説を棄却してくださいよほんと、ってツッコミを思って、反省した。流石にそこまで思ってないわーい、って思った。

語彙

▼▼語彙力の話が流行っていた。知らない言葉を聞くのは好きだ。語彙が、豊富な――異質な、人の話、を聞いているのも好きだ。聞き慣れない言葉が、さも、当然のものであるかのように、使い慣れた心地で、扱われているのを聞いてるの――見ているのって、ほんとうに、気持ちよい。未知の言葉が、至極自然に扱われている、という事態を認識した時に、素敵だなあ、と妙に思うのだった。青空や平原や図書館に立ち並ぶ無数の書棚を前にして「広大さ」に感激している時の心持ちに似ている。


▼▼語彙の量はともかく、好きな言葉は、わりと沢山、掴んでこれている気はする。好きな言葉を語彙にできている気はする。

電子書籍の定額サービスと、もっと欲しい読書

▼▼定額で、毎月、沢山、電子書籍が読めますよー、っていう選択肢が、この世界に登場してきてくれたようだけど、新たな読書体験――理想的な読書生活、というような「枠組み」で考えてみた場合、読書に関する欲、というのは、もっとほかの方向に向いている気がするなあ、って少し思った。▼▼人生の中に――一日の中に、読書、というものが登場し、位置してくれる、というならば、ここにいて欲しいぞ、っていう場所が、もっとほかにある気がしたのだった。
▼▼もうちょっとだけ強制的に文字列が目に飛び込んできてくれて、もうちょっとだけなんとなくだらだら読み続けてしまう、という機会が、もっとあってくれてよい、というようなことを思っている、感じだなー。読書の意欲をもっとサボらせてくれる(勝手に読んじゃう)ようにして欲しい、という、怠惰にまつわる話、って雰囲気ではある。